死ぬ前に。 | 仙台駅前にあるカウンセリングルーム まきび

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開設から18年。不安感・対人関係・恋愛・トラウマについて小さなご相談から改善に向けた専門的な分析・心理療法によるカウンセリングまで幅広く承ります。仙台駅前パルコ2から徒歩1分のビル内にある看板のないカウンセリングルームです。Zoom、スカイプ、お電話でも承ります。

※自殺・自死について書いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

この世界に今存在する人間は、未遂も含めもれなく自殺未経験である。

だから自殺や自死については、ある程度憶測でものを言うしかない。

 

 

あくまでこれは、「生きること」に苦しむ人をたくさん見てきただけの、

死んだ経験のない1カウンセラーの意見に過ぎないことを前提として、

次の話を聞いていただけたら嬉しいと思っています。

 

 

 

人は、いつでも死ぬことができる。

生き返ることは出来ないが、死ぬことは出来る。

でも死ぬときに、「死のう」と思って死ぬとは限らないだろうと思う。

 

なぜなら、生と死はつながっていて、

その境界線は誰にもはっきりとは見えないからだ。

 

ある瞬間までは生きていて、ある瞬間からは死んでいる。

しかし、その間に「かろうじて生きていた時間」というものが生と死に被さるように存在する。

その時、身体は必死に脈を打ちつつも、もう心はほとんど死に向かっている。

 

生と死は一直線上にあり、しかも肉体の死と心の死はイコールではない。

 

ならば、心の死を感じることができるのか?というと、実はそうでもない。

心の死はあらゆる思考を断つことがあり、死んだと分かるかどうかも怪しい。

まして外から「見えないもの」の生死を判断するのは難しい。

本人が心の死の後まで周囲に気を使い、平常と変わらぬ動きをすればするほど。

 

人はいつでも死ねる。しかも死ぬと分からずに死ぬこともある。

だからこそ、心が悲鳴をあげているうちに、その悲鳴を聞くことができるうちに、カウンセリングに来るべきだ。

いや、カウンセリングじゃなくてもいい。構えなくていい相手がいるなら誰でもいい。

 

もっとつらい人もいる、とか

忍耐が足りない、とか

 

そんなことは本当にどうでもいいことだ。

誰かにそんなことを言われたのかもしれないが、

他者と比較し自分を保ち、或いは鞭を打とうとすることは、そもそも悲鳴と大差ない。

 

カウンセリングに来たって、誰かに相談したって、何も変わらないと思うかもしれない。

それはもしかしたらそうかもしれない。

絶対に変わるという保証はない。

 

しかし、人はいつだって、死のうと思えば死ぬことができてしまう。

だからその前に、誰かに頼ってほしいと思う。

「大したことのない悩みなんですけど」と言えるうちに。

 

その頼る先が私であれば、一生懸命話を聞きます。

 

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