「“説明”じゃなくて『物語』で伝えろ!」、
「『物語』を語らないと、うまく届かないよ、等。
こうした言説が、昨今は増えてきています。
しかし、具体的に何をどう語ればいいのか。
「物語」と言われても、
自分に特別な体験は無いし、
人に聞いてもらえるような材料など、持ち合わせていない。
と、困っている人も、多いかもしれません。
まず知っておくべきことは、私たちが毎日毎日、
無数の「物語」を生み出していること。
そして、
私たちの日常というものが、自ら日々生み出す「物語」と、
過去の「物語」や他者の「物語」との
多様な連携の下で展開している現実です。
例えばある人が健康診断を受け、
“高血圧”と診断されたとしましょう。
祖父が心臓病で亡くなり、父親も心臓の病で苦しんでいる、
となれば、何か対策しないわけにはいきません。
食事に制限を付けたり、毎日サプリを飲み始めるかもしれない。
それまでの“日常”が、高血圧の判定から“新しい日常”へと
変化することになります。
周囲との関係とか、家族と交わす会話の内容とかにも、
当然影響が及びます。
勿論この新たな現実は
そうした「外面的」な変化に留まらず、
様々な「内面的」変化ももたらします。
祖父の死などを見てぼんやりと持っていた懸念が、
急に明瞭な危機となって、
心の中で大きく拡大して来るわけです。
「物語」と呼ばれるものの中核にあるものとは、
ここに示した様に、
ある“出来事”を挟んで、
“元の日常”から“新しい日常”へと移行していく、
その際の「外的変化」と「内的変化」を描いたもの、
と言ってよいと思います。
そしてその一連の変化の記述が、
聞き手の“共感”を呼んだり、
日頃の節制という教訓を引き出したり、
家族の支えのありがたさを感じさせたり、と、
“高血圧の診断”という単独の事象とは直接繋がらない、
多様なテーマに展開していくと、
徐々に“物語らしい”姿になってくる訳です。
この様な「元の日常」→「出来事」→「新しい日常」という展開は、
全ての人が毎日の様に体験し、
それらは身近な他者の体験、等とも交錯しながら、
日々の生活や労働を構成している訳です。
勿論、それらの話がそのまま“面白い話”、“為になる話”等と
なるかといえば、必ずしもそうではなく、
「聞き手」にとって興味深い中身にしていく為には
「語り手」の解釈や情報の追加、
表現の妙やちょっとした演出なども
求められてくることになります。
「物語」の種は、日常の中に無数にある。
だから、これらの素材を使って“物語”へと格上げし、
ビジネスや日常会話を
“面白い”、“為になる”、“役に立つ”、等に
することができれば、それは素晴らしいだろう。
というところまでは、以上で明らかになったかと思います。
その方法について、また続けます。