「新しい物語」は誰が描けるのか | チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる

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この世に生まれて間もなく、人は「ものがたり」と出会い、そこで広い世界とのつながりを作ります。このblogでは、「ものがたり」と共にある人の可能性を探求していきます。

中曽根康弘元総理の「内閣・自民党合同葬」が、

昨日都内のホテルで行われたそうです。

 

 

今の40歳以下の人にとっては、

殆どどうでもいい話でしょう。

 

この人が総理大臣だったのは

もう四半世紀も前のことです。

 

こんなご時世に1億円近くも使って、

やる必要は本当にあるのか

 

とか、

 

学校に対して国旗の掲揚とか、

弔意を示せ、とか

政府が言うのはおかしい、とか、

 

色々議論が起きています。

 

確かに弔意は心の問題なので、

“悲しめ!”というのは、相当に無理があります。

 

20世紀には通用していた、大きな「物語」。

 

敗戦から刻苦勉励、一所懸命学び働くことで

日本は、日本国民は、豊かになれる。

 

そういう成長の「大きな物語」を描いてきた

20世紀日本を作ってきたリーダー達。

 

その意味で中曽根さんは、

まあ貢献者というべき人なんでしょう。

 

それも、一市民的感覚をいうと主役はやはり田中角栄で、

中曽根さんは2段階くらい格下の感覚なのですが。

 

問題は、

もはや完全に崩壊しているといっていいい

20世紀型の「大きな物語」を信奉している人が、

政府の中核で、今も大きな力を持ってしまっていることです。

 

ただ現実には信奉している人は、大勢いるわけではない。

何となく変だなあ、おかしいなあ、と思っているけれど、

しぶしぶ従っている人が、大部分なのだと思います。

 

だから、この懐疑派がもう少し上がってきて

この辺の力関係が逆転していれば、

今回の合同葬の規模も、大分縮小されていたでしょう。

 

大事な点は、何故、こういう事態が変わらないか、という事で、

これはやはり「大きな物語」に代わる、「新しい物語」が

描けていないこと、だと思う訳です。

 

それって、国家観とか、世界観とか、労働のイメージとか

学問、教育、ジェンダーとか、結局全般に及ぶことに

なってきちゃうんだけど、

 

あまり大きな話でなくていいから、未来が開けていると

感じられる灯とか、

パッと希望が見える様なキラキラした提案が、

出てきてくれないかなあ、という風には、思います。

 

これは単に勘みたいなものだけれど、

「新しい物語」は、有能な政治家とか役人が絵を描く、

みたいな感じではなくて、

 

デザイナーとか、ゲームの開発者とか、美容師とか、

地域おこしのプランナーとか地質の研究者とか、

思いもよらぬところから、何かが飛び出してくる様な

気がしています。

 

勿論根拠なんかありません。

単に、“物語的な”期待に過ぎないのですが。