6/14 9回目の大邱⑤ タクシー運転手さんが集まる美味しい食堂~キョンブクハンシッキサシクタン
6月の全州(チョンジュ)・南原(ナムォン)・大邱(テグ)旅レポ こちら↑の続きです。
この記事は、今回の大邱旅の中で皆さんに一番知っていただきたいと思う重要レポです。
長いですが、どーかひとつ読み落としなきように~!
七輪で焼く炭火焼肉通りが有名な七星市場駅からバスに乗に揺られること45分、鹿洞書院(ノクトンソウォン・녹동서원)へ。
「郷校(ヒャンギョ)」が孔子の位牌を祀り、両班(ヤンバン・朝鮮時代の貴族)の子孫に儒学を教えた現在の国立学校に相当する場所だったのに対し、「書院」とは、朝鮮時代にその地方で儒教を説く儒学者の位牌を祀るとともに、儒学者を育てるための教育機関でもあった、いわば「私学」の建物のこと。
これまでにも、安東(アンドン)の陶山書院(トサンソウォン)、江景(カンギョン)の竹林書院(シュンニムソウォン)など、韓国あちこちの書院を訪ねたことがあります。
今回も単純に「大邱にある書院を訪ねる」という気持ちで、何の予備知識も持たず訪れたのですが、こちらの書院には日本と韓国を結ぶ深い因縁があることを、訪れて初めて知ったのでした。
まずは、鹿洞書院に隣接する「達城(タルソン)韓日友好館」へ。
2012年に政府の支援を受けて開館したそうです。
坂本龍馬を尊敬し、日本のドラマを見て日本語を勉強なさったと仰る日本語解説士キム・ウンスクさんに案内していただきました。
「まずは、こちらで映像をご覧ください」と案内され、3D眼鏡をかけて拝見したビデオ(日本語音声があったのはありがたい)の内容に、大きな衝撃を受けました。
その映像とは、秀吉の朝鮮出兵の時に、朝鮮の勝利に大きく貢献した日本人「沙也可(さやか)」という人物についてのものでした。
「慕夏堂(モハダン)」という朝鮮の漢文に、「沙也可」にまつわる記載があったそうです。
1592年文禄の役のとき、わずか22歳だった沙也可は、加藤清正の先鋒武将として3千人の兵を従えて朝鮮に上陸。
しかし、幼い頃より礼教(儒教)の文明への憧れが強く、朝鮮という国は義・礼・智・忠と文化に優れた国であり、日本による朝鮮侵略は不義であると考えていたことから、3千人の兵士とともに朝鮮に投降。
一日も早く侵略戦争を終えたいという願いから、劣性だった朝鮮に火縄銃と火薬の製造技術を伝えました。
(↑別の展示室に合った当時の火縄銃。特別に拝見させていただきました)
更に火縄銃部隊を組織して、慶州(キョンジュ)、蔚山(ウルサン)などを廻り、80回に亘る戦いで18の城を奪還。
多くの功績をあげ、武官ながら大臣相当の官位にまでのぼり、土地を賜り一村を成し、朝鮮の王より金忠善(キム・チュンソン)という名前を賜ったという人物です。
達城韓日友好館では、沙也可こと金忠善(キム・チュンソン)将軍に関する資料を中心に、日本と韓国との交流の歴史に関する資料を展示しています
実は「沙也可」なる人物については、現在でも不明の点が多いそうでして、本名もわかっておらず、戦国末期に今の和歌山市に住み、火縄銃の名士として恐れられた雇兵「雑賀(さいか)鉄砲隊」の頭領の子供であったという説や、本名が左衛門(サエモン)だったのではないか(司馬説)などと憶測されています。
敢えて女性の名前を付けることで、日本に残してきた家族を守るために自分の身分を隠すことができたのでしょう。
現在では、毎年大勢の日本人がこちらを訪れており、特に和歌山とは文化交流もあるのだそうです。
沙也可について日本に初めて伝えたのは、司馬遼太郎だったそうです。
帰国後、「韓のくに紀行」とともに、比較的コンパクトにまとめられたこちらの本を読みました。
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朝鮮時代には辺境を安定させるために、積極的に倭寇を誘致するという施策を実施したそうで、その他に朝鮮に対馬藩主が派遣した者、生活苦のため自ら帰化した者など、沙也可以外にも多くの日本人が帰化し、朝鮮に定住したという朝鮮時代の帰化人の歴史の説明もありました。
他にもこんな展示が。
文禄慶長の役以降200年以上もの間、日本からの要請により300人から500人程に編成された朝鮮通信使が12回に亘り日本に派遣され、朝鮮の先進文化、歴史、画風などを伝えたのだそうです。
一方、通信使を通して朝鮮にも日本の文物が伝えられ、朝鮮の知識人たちが日本社会を再認識する契機となったそうです。
これまで何回も力説してきました通り(苦笑)歴史に関する知識が乏しい私にとって、これまで全く知らなかった日本と韓国の歴史を知り、まさに目から鱗でした。
引き続き、沙也可こと金忠善(キム・チュンソン)の位牌が祀られている鹿洞書院を見学しました。
本来位牌を安置している建物が修復中とのこと。
現在はこちらの建物に保管されているのですが、キム解説士が特別に見せてくださいました。
戦から離れると、儒学者としての人生を歩み始めた金忠善は、第二の故郷 友鹿洞(ウロクトン)に根を下ろし、村人と一家の取りまとめに努めました。
平和のため、家族も国も捨てることを決めた金忠善は、郷愁を慰めるために故郷に向かって門を作ったのだそうです。
彼は遠い故郷への想いを胸に抱きながら、こんな風に景色を見つめていたのでしょうか。
「韓のくに紀行」によれば、あれから400年だった今でも、嘉昌面友鹿洞(カチャンミョンウロクトン)には沙也可の子孫が70世帯住んでいるそうでして、全国には4千人ほどいるのだと書かれており、毎年春と秋には、全国から子孫たちが鹿洞書院に集まってチェサ(法事)が行われているのだそうです。
こんなのどかな友鹿洞(ウロクトン)に、そんな歴史が残されていたとは・・・。
解説士の方のお話しを伺えて、本当に良かったですよ。
韓国では、現在でも反日感情を抱いている方が大勢いらっしゃると思います。
もしその方たちが、朝鮮時代に故郷や家族を捨てて朝鮮のために力を尽くした沙也可という人物がいたことをご存知ないとしたら、是非知っていただき、日韓の関係をもう一度考え直していただければと、切に願うのでした。
鹿洞書院(녹동서원)
住所 大邱広域市達城郡嘉昌面友鹿里585(대구광역시 달성군 가창면 우록리 585)
道路名住所 大邱広域市達城郡嘉昌面友鹿キル218(대구광역시 달성군 가창면 우록길 218)
電話番号 053-767-5790
入場無料
※施錠されておりますので、見学希望の方は韓日友好館にお願いしてください。
達城韓日友好館
電話番号 053-767-5751
観覧時間 9~18時
休館日 1月1日、旧正月および秋夕の連休
入場無料
キム・ウンスクさんは日曜日のご担当です。
大邱市内からの行き方
都市鉄道1号線 七星市場駅2番・3番出口の間にあるバス停から、嘉昌2(가창2)バス乗車。
47個目の鹿洞書院(녹동서원)下車(目の前に停車します)
所要時間 約1時間13分(Naver地図による)
バス時刻表(鹿洞書院の一つ先 友鹿(ウロッ)の時刻表)
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