マヤの暦によると(とは言え解釈の一つという見解もあるが)2011年10月27日に世界は終焉を迎えるのだそうな。

(それによると3月11日の東日本大震災も予想されていて、実際には4日ほどずれ込んだのだそうな)


多少の時間軸のずれもあるかも知れないので「やっぱり何もなかった」などと安易に思わず過ごしてきたが、2週間も過ぎれば取りあえずは「外れた」と考えてもいいのかも知れない。


ただ、どんな状況下であろうと人間は必ず死を迎えることになるのだから、遅かれ早かれという想いがないわけでもない。


齢を重ねたせいもあるかも知れないが、自分自身は昔とは少し死に対する思いが違うような・・・。

例えば、病気で死ぬにせよ事故で死ぬにせよ、年齢に関係なくこれは既に天寿かも知れないと思う。


私自身は「死ぬ気になれば何でも出来る」という極めてネガティブな思考なので考えたことはないからなのだが、自殺のニュースを聞くたびに勿体ないと思ってしまう。

寿命があるということは死後の世界があるにせよ無いにせよ、「自分に与えられた自由に使える時間がある」と言うことだと思う。


その限られた時間を自分で絶ってしまうのは、まさしく「勿体ない」かと。ただし、これも自分で好んで未知の死後の世界に飛び込むわけではなく、その殆どの人が「追い込まれて自ら死を選ぶ」ワケなので、これも考え方によってはその人にとっての天寿かも知れない。


何もなければ後何年も生きられる命を自ら捨ててしまうのだから、自殺は確かに罪だと思う。

よく宗教的な見地から「自殺は最大の罪」という事を耳にすることがある。

だが本当にそれだけだろうか?

私は命は続くものだと思う。自殺に限らず、一人でもその人の人生を想い、その人の過去を想い、その人の死後を想うことで、その人の存在はこの世にあった証として繋がり、そして死後の世界があるとすれば、その人は報われるのだろうと思いたい。


昨年、義父を亡くしたが、心臓発作で急逝したにも関わらず、その死に顔はとても穏やかで笑い顔にさえ見えた。

どんな死に方でも自分の運命なので仕方ないが、できればそのような穏やかな死に顔で送って欲しいものだ。

今日はちょっと毛色の違うタイトルですが、中身までそうそう変えれるほど文章力はありません(笑)


数年前から廃棄物の処理がきびしくなってマニフェストなるものを必要とするようになった。

私は産廃を出す立場と言え、せいぜい1ヶ月に軽の箱バン1車程度なので大したことでは無いのだが、それでも処分費を払い、処理の過程行程を記載されたマニフェストを受け取ると、なんとなく適正に処理されることで「地球環境に優しかった」などど自己満足を持ってしまう。


だが、先日ちょっとした事で(まぁ、未来を描いた映画を見たことなのだが)自分を含む人間のおごりなんだろうなと思ってしまった。

環境保全とか地球に住む生物のためとか、きれい事は言っているのだが実際は人間様が住みよい環境を維持したいだけなのではないだろうか?

本当に地球全体の規模で考えれば、ゴミ云々より人間が居ることの方がよっぽど問題なのでは?


どんな化学物質であれ、頑強な廃材であれ、形あるものはほっておいてもいつか必ず自然に戻る。

環境のためにゴミを処理するなんてのは、そういう観点で見ればエコではなく、エゴでしかない。

もちろん環境保全は大事なことなのでゴミを出した限り適正な処理は必要なのだが・・・。


と言うことで、ゴミを適正に処分することより、ゴミを出来るだけ出さない経済を考えましょう・・みなさん。

日本は基本的に仏教の国なので先祖供養もしかりでお寺へお参りすることが多い。


子供の頃、親に連れられて行ったお寺に掲げてある「極楽・地獄」の額、とりわけ地獄の絵を見て恐怖したことを覚えている。

小学生の頃などは、お寺に行った夜は「死」が恐ろしくてなかなか寝付けなかったものである。


歳を重なるに従って薄らいできたが、その時に覚えた「恐怖」は心のどこかに刻まれているように思う。


今になって時々考えるのだが、その世界(特に地獄)は自分の魂が実は体感したのでは無いかとさえ思う。

赤子の時は前世の記憶が残っていて、時が経つと薄れていくという話を聞くが自分の恐怖もそれではないのかと、少し空恐ろしくなったり・・・。


そうそう世界の宗教に明るいわけではないので解らないが、少なくとも仏教には「地獄極楽」があり、キリスト教には「天国地獄」がある。

形は違えども、よしんば宗教と言われるものはこの二つを持っているのでは?


人種・国・環境が全く違う人類の宗教で、ほぼ同じ死後の世界が表現されると言うことが、あながち偶然の一致とはとても思えない(汗)


いや、考えいたら背中が涼しくなってきたので、姿勢を正して仕事に出掛けてきます。