七年戦争の経過を自分なりに整理してみた | Grünberg

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こんばんは。

七年戦争の経過を自分なりに整理してみました。

●七年戦争とは

オーストリア継承戦争でシュレージエンを奪われたオーストリア(当時は神聖ローマ帝国)が、復讐心に燃え周辺国と同盟を結びプロイセンに仕掛けた戦争。
オーストリアが長年敵対していたフランスと手を結んだことは外交革命とまで呼ばれた。

●ベーメン侵攻
オーストリアの動きを察知したプロイセン率いるフリードリヒ大王は、オーストリアの喉元のベーメン(現在のチェコ)へ先手を打って侵攻。
プラハの戦いではシュベーリン伯クルツ元帥が戦死する激戦でしたがプロイセン軍は勝利を収めプラハを包囲します。
が、オーストリアのダウン元帥にコリンの戦いで敗れベーメンから撤兵します。

●内線戦術による勝利
プロイセン軍は自領内まで撤兵し、内部で敵を迎え撃つことにしました。
注目されるのはロスバッハ及びロイテンの会戦で、プロイセンお得意の斜行陣を使い勝利しています。

●ロシアの参戦
状況を変えたのはロシアの参戦でした。
ロシア皇帝のエリザヴェータはフリードリヒ大王を心底嫌っており、徹底的にプロイセンを叩き潰そうと正規兵の大軍をプロイセンに送り込みました。
ツォルンドルフ、ホッホキルヒ、クーネルスドルフの会戦で、プロイセン軍はそれぞれ兵力の3割を喪失する大敗北を喫しました。
特にクーネルスドルフの戦いでは強固に構築されたロシア軍陣地に対してプロイセン軍は銃剣突撃を敢行するしかなく、多くの犠牲が出ました。
クーネルスドルフの敗戦で、フリードリヒ大王は自殺を考えたほどだったといいます。

●ブランデンブルクの奇跡
天はプロイセンを見捨てませんでした。
ロシアではエリザヴェータ女帝が死去。
後を継いだピョートル3世は大のフリードリヒ大王信者でした。
彼は即座にロシア軍を撤兵させました。
このことがブランデンブルクの奇跡と呼ばれているようです。
その後の戦いでプロイセンはオーストリアに勝利を収め、戦後有利な形で条約を結ぶことになりました。
結局オーストリアは多くの犠牲を払ったにも関わらず、シュレージエンを取り戻すことは出来ませんでした。

というのが七年戦争のざっとした流れです。
興味の出た方はwikiとか読んでみてください。