さて、韓国から直輸入しましたK1A1を作っていくことにします。
ここまで一気に。
さらっと出来るからすごいキットだ。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20170513/18/byarlant-custom2013/9a/2d/j/o0960054013936453122.jpg?caw=800)
転輪も作っていきます。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20170513/18/byarlant-custom2013/84/04/j/o0960054013936453133.jpg?caw=800)
片側完了。
両側完了し、履帯もつけました。
ちな可動キットですが、転輪が固く肝心のキャタピラが回らなかったため展示模型としました。
まぁ、元々こっちの方が安くて買ったから無問題。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20170513/18/byarlant-custom2013/9a/01/j/o0960054013936453141.jpg?caw=800)
今日の製作はここまで。
明日からは砲塔の製作に入ります。
この改造キットの出番もあるのかな!?
おまけ
ここからは興味のない人はスルー推奨!!
なぜか思い立って郷土史を勉強したくなりまして。
手始めに高千の江戸時代の歴史を勉強してました。
面白いと思ったこと。
・「葬式の後塩をかける」のと「冬至にカボチャを食うと中風にいい」のは高千特有の迷信だったこと。
・生イカと梅干しを食うと死ぬ(オイコラマテ
・呪いをかけるときは宮の木に釘を刺す(オイオイマテマテ
・寄合での決めごとが村落の司法・行政権を担保していたこと。
その後は、戦国期の本間氏についていろいろ調べてました。
以下、軍記の記述。
・上杉景勝は、秀吉の惣無事令に違反し戦闘を行ったことを口実に佐渡征伐を決意。曼荼羅寺の住職を務めていた沢根本間氏の弟を通じて沢根本間氏を離反させることに成功。
・沢根本間氏の手引きで、沢根城横の海岸に上杉軍3000騎余りが上陸。一方、河原田本間氏当主本間高統(たかつな)も、雑太(さわた)本間氏からの援軍も含めた500騎余りの軍勢を東福城に集め、また大手門の櫓には石や手裏剣を集め、選りすぐりの弓手を集めるなど、侵攻に対し万全の備えをしていた。
・上杉軍は鬨の声を上げ東福城への攻撃を開始した。一方、高統軍500騎も城内で鬨を上げた。
・城方の抵抗は熾烈を極めた。矢に射られ、先鋒を務めた沢根本間氏一族の齋藤勘解由左衛門が討ち死に。その他にも、死傷者が多数出たため、上杉軍は一時撤退することに。
・ここぞとばかりに東福城から500騎の軍勢が進撃。撤退中の上杉軍に対し総攻撃を仕掛ける。上杉軍は泥沼地帯の鴨摺(かもずり)へと追いやられ多くの者が討ち取られた。
・鴨摺の戦いの最中、駒沢主税介という者が只一人抵抗を続けていた。槍の名手だった高統軍の内藤清兵衛は、彼の槍に腹を突かれながらも、鎌槍で主税介の首を刎ね、絶命した。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20170513/18/byarlant-custom2013/23/a6/j/o0960054013936453149.jpg?caw=800)
激戦の舞台となった鴨摺。
今は左側にある橋の名前に鴨摺の名前が残るのみです。
左奥の方に見える白い建物が、東福城の跡に立った県立佐渡高校です。
周囲には佐和田病院、特別養護老人ホームやはたの里、佐渡市役所佐和田行政サービスセンター、火力発電所があります。
ちなみに、この時の鎌槍なのかは分かりませんが、東福城出土の鎌槍が佐渡博物館に常設展示されております。
・業を煮やした上杉軍は、沢根本間氏の兵に東福城の裏道を聞き、そこから兵を潜入させて、城に火を放つ。火の手の上がった城内は大混乱となり、それに乗じて上杉軍が乱入。城主高統は乱戦の最中手傷を負い、「もはやこれまで。」と腹を切って火の中に身を投じた。
・高統に手を貸した雑太本間氏の本間信濃守は、既に城を失い、高統戦死の報を聞き絶望して腹を切って果てた。こうして東福城攻防戦は幕を下ろした。
まー、軍記なんで脚色や誇張はあるとは思います。
特に高統の最期なんて、信長のそれっぽいですからね。
いくら土地勘があるとはいえ、精兵として知られた上杉軍の兵士をそこまで翻弄することが出来たのかな~とも思いますし。
でも、佐渡本間氏の兵士も上杉謙信の北条征伐に参加してるみたいですし、河原田本間氏と羽茂本間氏は常に抗争してたみたいですし、兵の練度としてはそこまで悪くもなかったのかな、と思います。
佐渡の戦国時代はすごいですよ。
河原田本間氏と羽茂本間氏はガチで何度も抗争するし、それに伴って各地の小領主も互いに戦闘を繰り返すという状況下で、守ってくれるものがないので、各地に城を築いて自衛するしかなかったようです。
で、戦闘になると行われるのが、民家への放火・・・
当然乱取り、強姦なんてお手の物でしょうね・・・
話を戻して
羽茂本間氏の末裔の方は、そもそもこの東福城攻防戦自体が行われていないと述べてますが、あの方の論拠としていた史料自体信用性に乏しいもののようですので、どうなのかな~と思います。
城跡から死体の出土がなかったと言いますが、佐渡人の心情を思えば丁寧に片付けて埋葬したんだと思います。
ちなみに、本田寺の門は東福城のものを移築したものとされてます。
はい、というわけで趣味の話でした。