personの語源と、ネドじゅんさんの話を書こうとして放置した文を、そのまま出してしまう | 巡礼者のブログ

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徹夜は二連チャンにならずに、爆睡。きょうは、なにか、首の具合がヘンで、過ごし辛い。週末ということで、存在と呑んでる。


きのうの羽生さんと康光さんの順位戦は、根性なくて、最後まで観ていない。ただ、順位戦とか、workの語源続きの調べ物で、ラタトイユ作れなくて、存在が、「じゃあ、トマト食べよう!」というので、粗塩さんで冷やしただけのトマトさんを食ったら、割と酸味があって、なかなか美味かった。桃太郎とかだと、果物みたいなお味で、野生味がないので、イマイチだが、きのうのトマトさんは、悪くなかった。トマトさん買ったのって十五年振り?それ以上?じゃないのか?高いし、トマトさんなぞ贅沢品。


でも、きょうも存在が、トマト買おう!というので、買ってきて、冷やして食ってる。きのうの方が野生感があって良かったかな?とは思う。粗塩でトマトさんとお酒さんは悪くない。ビールさんだったら、もっと夏らしくていいのだが、きょうは週末ということで日本酒さんである。いまは久しぶりにご飯を炊く準備をしている。


さて、問題のworkの語源、とか、personの語源であるが、ウチにたくさんある辞書や参考書の類いを見ても、なんも書いていない。で、きのう、仕方がないのでネットで探したら、出ている記事は殆どないのだが、重要な手掛かりがあって、やっとか、という感じであった。


workからやるのか、それとも、それならどうもpersonが関係あるんではないのか?という漠然とした直感があったが、どうもその直感は正しかった。自分の中で、勝手にそう思っているだけなのだが。


しかも、personについては、なんと、ネドじゅんさんのお話そのものであったりしたので、これは驚きであった。逆に言えば、ネドじゅんさんの「前の方の自分」?についての描写が正しかったのである。これは思わぬ展開であった。そして、直感通り、workとpersonはセットとして認識する必要がある言葉だったのである。


こうなると、先に、workよりも、personの語源について書いた方がいいのかも知れない。


personというと、いいとこ、mask、と、語源について書かれているのが、辞書としてはせいぜいで、肝心なその意味については書かれていない。編者の人たちが、ワザとそうして書いているのか?あるいは、意味は分からないが、どっかの辞書に書いてあるから、コピペしたのかは分からない。日本の辞書とか、英英和とか、英英辞典では、日本で売っていたものは、そんな感じなのかも知れない。


personについては、maskというのは、ある程度分かる。というのは、personaという言葉があるからである。精神医学や心理学には、ペルソナという言葉は頻出するし、ニーチェは、「我は仮面を愛する」と言っているので、直感としては、社会的な自分?とか、ウソの自分?という話ではあるのだろうと。乱暴に言えば、多分、personはそういう話なのだろうと。もちろん、仮面舞踏会という話もそれだろう。いつもの自分ではない自分を演じる、というのが仮面舞踏会=masqueradeなのだから。となると、この三年間とは何なのか?という話でもある。


しかし、ある方の記事では、それについて、語源の話として、具体的に解説されていて、これは!というものであった。personの語源はmaskというのでは、あまりにもいい加減であったのである。


因みに、この数年間、何で我々はマスクをさせられていたのだろうか?今でもマスク顔の人たちの方がメジャーなのであるが。まだしている人の精神状態はどうなっているのか?とか。


で、やっとpersonの語源である。出典は以下である。




書いてある様に、perというのは「下から」ということで、sonaというのは「声」である。sonというのは、「音をたてる」とか、「響く」ということである。


自分のなかでは、この構造が、work、とか、仕事、とか、先日自分が被害にあった警察官が、「仕事ですから」と言ったことと、繋がっている。もちろんネドじゅんさんの話とモロに繋がると感じている。


ネドじゅんさんの話は以下である。とりあえず、ネドじゅんさんという方が、どんなこたを体験しているのか?というのは、以下の短い動画である。




で、自分がpersonと、ネドじゅんさんの話が繋がると思っているのは、以下の話である。


と、思ったら、その動画はネット公開しないで下さい、とあるので、ネット上の記事なので、困った。


言いたいことは、「ホントの自分の前面に、ニセ?あるいは、仮面の?自分?がいる」というだけの話である。


その「前面にいる?自分?」というのは、「わたし」という「意識された」自分、という話であるし、乱暴に言えば、ネドじゅんさん的な文脈で言うと、左脳の自分、という話になる。


前面の自分?というものがあるとして、後ろの自分、というのがある、というのが、ネドじゅんさんのお話しであり、体験である。


この後ろの自分、というのが、ネドじゅんさんからすると、右脳の自分、という話になる。


前面の自分、というのは、「意識」であり、「意識は合成アプリ」というのが、ネドじゅんさんの表現である。



と、先日、ここまで書いて、その先の文字起こしとか、根性なくて、放置していた。


personについて、もっと書かないといけないのだが、ネドじゅんさんの「前面の自分」と「後ろの自分」というのが、言ってみれば、maskと顔、にあたるのだと思う。


その辺りを書かないといけないのだが、きょうは、藤井竜王への挑戦を決める永瀬さんと伊藤匠さんの三番勝負一局目というのもあって、今、反省会中。


あす、この続きとして、続きを書けるのか?あるいは、最初からやり直しなのかは分からないのだが、とりあえず、中途半端なままで貼り付けておこうと思う。


ネドじゅんさんを文字起こし、とか、動画上では出来るのだが、やっぱり、原典の動画を挙げておいた方が、本当はいいのだろう。公開されている動画ではあるし、別の個人や個人名が出てくるという訳ではないのだが、ネドじゅんさんが「ネット公開しないで下さい」というのは、何通りかの意味にとれるのだが、動画に出しておられるのはネドじゅんさんご本人の様だし、どうしたらいいのかよく分からない。


とりあえずこの話は未完成状態で、きょうは失礼。