workの語源とかしつこく徹夜で調べる、とか、本当のことは教えない、とか | 巡礼者のブログ

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徹夜。ずっーと辞書引いても、手持ちだとダメなので、iPadでいろいろあたってみると、「アタリ!」の記事を発見する。で、徹夜で、考えてみれば、羽生さんと康光さんの順位戦、先崎さんの解説だったよなー、と。それはそれでいろいろ感じるものがあるのだが、徹夜あたまでは、終わりまでは厳しいか、と、とりあえず書いてる。


ずーっと、workという言葉と、その周辺の発想とか語源を辿っていたのだが、実は、その前に、昨日は、workから、何故か漠然とした直感で、personの語源を調べないと、workの語源とか発想が分からないかも?というのがあった。


不思議なことであるが、workはwork、とか、personは person、ということで、手持ちの辞書とか、そこで思考停止している。本当にwork、にしても、person、にしても、基礎的な言葉というか、そこで思考停止というか、事象の地平というか、何か、「見せない様にしている」という感じを受けていたのである。


そういう事を疑ってしまう、というのが、自分?なのか?と。存在は、「やっぱり◯◯ちゃんは、◯◯ちゃんだね!」と、褒めてるのか、呆れているのか、まー、付き合うよ、という感じで、徹夜作業。


ネット上にあるのが、本当なのかどうか?という問題はもちろんあるのだが、それより、ああ、ここに辿り着くのか!という、ある種の納得感というか、腑に落ちることが多かった。


あるいは、仕事だとか、ワークだの、ジョブだの言ってるけど、最近で言えば、どこぞの中古車屋さんとか、どこぞの損保屋さんの話があったり、って言うか、日本中、おんなじ構造なんじゃないの?って、普段から思っているので、企業だの、組織だの、会社だの、仕事だの、って、全く信用していない。


大昔。最初のアルバイト、って、ヤバイことを続けてやらされた経験があって、こんなこと、良心⁇の呵責⁇ってあって、辞めたことがある。「仕事、って、こういうものなんかなー?」と、やってらんないで、これ、表に出たら、この企業、一発アウトだよなー、と思ったりしてはいたのだが、同じ様な世界のアルバイトをしてた人たちの話を聞いても、やっぱりそうなんだー、という絶望感と呆れで、そんなん、働く意味ないし、犯罪に加担してるだけじゃん、って、アルバイトの原体験がある。


日本って、そういう国なんだなー、って絶望感。それが若い時のアルバイトの原体験。


別に中古車屋さんにしても、損保屋さんにしても、まあ、そうなんだろうなー、と思えてしまう自分に対する絶望感。たまたま、その世界のほんの一部が出ただけなんじゃないの?って、原体験が、そのまんま、ってだけのこと。


そういうのを、「仕事」とか、「職業」とか、果たして呼んでいいんだか?みんなそうなんでしょ?って、原体験、あるいは、その先に仕事に就いたりして、あるいは友人とかの話でも、そうなんだよねー、って、そこまでして働く、とか、仕事、とか、って、やっぱり犯罪だよなー、って現場の話を共有したりして、で、また明日があって、また仕事で加担して、って、仕事が出来る訳でもなく、でも、違う、って、生きた絶望やってた。


そんな原体験があるから、workだの、jobだの、って、多分、洗脳としてあるんだろう、というのはあったけど、世の中自体が、それそのもの、って、絶望。


そうなると、辞書引いても、workの語源が見当たらない、とか、personの語源が辞書引いてもない、とか、って、ひょっとして、英語学習?ってものが、ホントの事を知らせない様にしてたんじゃないか?とか、それがちょっと明らかになったのが、きのうからの徹夜かなー?とは思う。


とりあえずは、腑に落ちたし、サルガドが撮ってる過酷な労働環境で働いてる人たちの写真が、みんな神々しく見える、って、やっぱり洗脳に都合のいい写真作品?洗脳広告?として都合がいいだけじゃないのか?とか実際に観て、感じていたりはする。別にサルガドのテーマが悪いというのではなく、「都合よく使われている」だけの話なんではないのか?と。


愚痴だけで、肝心なworkとか、personとかの語源について、きょう触れる根性がないので、明日以降に、またworkの語源とか、personの語源とか報告出来ればいいと思う。


中古車屋さんの人たちも、損保屋さんの人たちも、他の大なり小なりのそういう事を含めて、洗脳って、こういうこと、なんではあると思う。


先日、近所の古本屋さんで、たまたま発見したものがあって、その目次に、


「利他主義から倫理は引き出せても 倫理から利他主義は引き出せない」


という章があって、あー、そうだよなー、と感じていたのが三日前だったか、その著者さんは、パスツール研究所から、某大学のウイルス研究所、そして、分子生物学の教授、という経歴で、それは、この時代には、あまりにも偶然過ぎると感じてしまう。


そういう経歴の人が、


「利他主義から倫理は引き出せても 倫理から利他主義は引き出せない」


という章を割いて書いている、というのは、結局は、絶望に辿り着く、というのが、それもシンクロなのか、と思ってはしまうのである。