二つのモードと、そこに自分は存在するのか? | 巡礼者のブログ

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爆睡して、何もしていない。見逃した動画を観るくらい。疲労感は軽減しているが、世間で起こっていることが、あまりにもやってらんないので、それが今度は疲労になる。贅沢版の納豆ごはんで、少しはからださんは楽になれるのか?


きょうは、敢えて言えば、こころさんモードではなく、ハートさんモードの様であるが、ハートさんが望んでいるのは、いまの体感ではなく、もっと楽な状態。ハートさんによると、それにれついて聴くのではなく、その体感があるまで待て、という。言葉で教えても意味がないと言う。


ただ、こころさんによると、こころさんモードと、ハートさんモードは、ある種のバランスだと言う。しかし、直接的に、交感神経と副交感神経にあたるというものではない、と言う。


体感的には、こころさんモードというか、単純な集中状態の方が、楽ではある。それは、あまりにも酷い世の中の状況が、集中によって、入らなくなってくる状態になるからだ。そして、一応は、やった、という感覚にはなれる。


だが、ハートさんモードだと、幾らでも情報が入ってきてしまう。とは言え、まだ、ハートさんの言うハートさんモードからは遠いのであるが。


どちらにも共通している点があるとしたら、お部屋の状態を改善しようという意志である。改善というより、単純に、という言い方が近いのかもしれない。


快適な状態を作り出すことによって、二つのそれぞれのモードに入りやすくなるのだと想像するのであるが、先のことを想定すると、モードから疎外されてしまうのではないか?というのが、今のところの体感。


先を考えることと、意図というのは別だと思うが、自分の意志による「意図」が入ったら、それぞれのモードがどうなるのか?という事には興味がある。今のところは、どちらのモードも、意図や意志、あるいは、自分、というものが入らない状態として体験している。


自分というものがあるとしたら、それは、体感、である。体感でモードをモニターしている、という状態である。


きょうは、これからモードに入るのかは分からないが、こころさんも、ハートさんも、整理したい、と言っている。それはそうだ、と思う。そこでは、とりあえず、モードだけに従って、結果として、そこに自分はいたのか?という確認の時間になるかもしれない。


多分、であるが、こころさんモード≒単純な集中と反復、になりそうな気配である。


単純な集中の気配を感じるのは、あまりにも酷い情報が多く、それにまみれてしまい、やってらんない体感に対する、バランスの取り方をからださんが望んでいるからである。


反復と集中というのは、ある種の逃避、あるいは、また一つの内面への亡命なのかもしれない。


せめて、亡命政権、くらいにはなって欲しいものだが、世間から入ってくる情報は、売国、に関するものだらけである。