将棋を観ていて思うこと。自分を生きること | 巡礼者のブログ

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徹夜は避けて、朝から将棋観て、施設にいって、スタッフさんに話を聴いてもらって、早く帰って、また将棋観て。まだAbemaTVトーナメント観てるけど、流石に大変。地獄の将棋観戦の日。

菅井さんは、自分に怒ってる時は強い。でも、最近、菅井さんの自分に怒ってるモード割と少ない、というか、今回は怒ってるモードで、菅井さんらしい。大橋さんは、何か指し手の発想とか感覚はオレに近い気がする。

というか、もうボロボロで、観ている方がボロボロになってどうする?

きのうから、またiPhoneのSafariのリーディングリストをチェックして、捨てるものは捨てながら、読むものは再読、と、根気の要る作業。半徹くらいだったが。骨の折れる作業。

しかし、探しているもので、まだ発見できていないものも少しあるので、管理がマズイのかもしれない。読み直すのは、勉強というか、振り返りというか、数年分を振り返るのは、まだ時間が要る。

なんでこんな記事を読んでいたのか?というものもあるが、それはその時に必要だったから読んでいた訳で、今はたまたま読まなくとも良い、というだけの話。また必要になったら、検索するのだろう、という事で、消していく。

それにしても、根が真面目なオレ?というか、どうも真面目過ぎる。調べないで、勝手に自分のことを考えれば良いのに、調べる。理解しようとし過ぎるというか。

それより、将棋指すとか、観るとか、音源聴くとか、そういう努力?をすればいいのに、端末の怖いところは、ウッカリ調べたり、とか、それを、ウッカリ理解しようとしたり、とか、それがまずい。

しかし、きょうも半徹でSafariの処理を続けて、あすは美味しいお酒さんを呑めるといい。先輩と友人とで、毎度の大酒大会になるだろう。一緒に呑める人がいる、というのは幸いである。しかし、連休最後の夜から呑む、というのは、ヘンな贅沢というか、ひょっとしたら、呑むことで日常に戻るというメンバーであるのかもしれない。

Safariでいろいろ捨てられると、お部屋さんの本も捨てられるのではないか?と予行演習?である。ネットの世界になって、ネット環境にしたら、紙の書類さんとか、本さんとか、減らせる、と、昔は思っていた。

だが、ネット環境にいると、逆に本が増える、書類は増える、図書館からの借り物も増える、というのが、その後であって、それは、勉強?とか、研究?の類いではあるかもしれないが、それは、自分自身の時間ではない、と思う。

人様の記事で、いろいろ考える、というのはあるが、それは人様の人生である。人様の人生は、勉強になる。だが、それより、自分を生きている時間を増やせ、というか、人様の記事を見ていても、それが自分の空間である様に過ごせ、というか。

情報が意味となる場合は、あるにせよ、情報を自分で生きる訳ではない。からださんにしても、今?というか、今あるからださん、は、過去の結果の全て?であって、見直すなら、自分の?からださんから始めろ?というか。

人様の記事というのは、人様の人生である。だが、そこから学ぶことはできる。しかし、それは、自分を生きる事ではない。共感することはあっても、それは、人様の人生である。

もうちょっと、自分の人生を生きられないか?と、Safariの処理をしていて感じる。最低に言っても、オレの処理能力では、それだけの内容を消化できない。本棚さんにも、一冊として、完全に?理解したものは、ない。

生きることと、情報を処理?する事は別であるし、それなら、自分の撮ったものを何度も見直すことは、かつて生きた自分の過去、なのだから、自分の撮ったもの、とか、自分の書いたもの、とか、見直す方が、それが一瞬にして過去になったものであるにせよ、それを俯瞰するのが、現状ではよいのではないか?と思う。

まだ地獄の様な将棋は続いていて、これを指している棋士は、自分を生きている、という姿を教えてくれているのだと思う。