これが音楽だ! | 巡礼者のブログ

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施設の日。それは一時間で、友人との呑み会の日。

友人とは、ウチでの呑み会の日になったが、友人が用意した最終兵器というのがあった。

友人とは、特にウチ呑みだと、オレのオーディオシステムでの日になるのだが、きょうは、本当に、「これが音楽である」というのを体験させてもらう日であった。

友人とは、いろんな音楽を、いろんな風に聴いているのだが、今回は、正に、「これが、音楽」という日であった。

いろいろ、iPhoneで聴いていたのだが、友人が手本にした、という、ブルックナーの四番も聴いた。もちろん、朝比奈先生の四番も聴いたのだが、新日フィルの音楽よりも、朝比奈先生の話の方が素晴らしかった。

で、友人のきょうの秘密兵器は、マタチッチのブルックナーの四番だった。きょう、いろんなブルックナーの四番を聴いたのだが、マタチッチとザグレブフィルの演奏がピカイチである。

もう分かったから、ということで、マタチッチの別の録音を聴かせてもらう。

それは素晴らしい演奏のだが、オレの耳には、どこのオケか分からない。本当に、「これが音楽だ!」という演奏である。上手いかどうかは別として、最初のハープの音だけで、涙が出た。

最初の「一つの音」のハープだけで、涙が出る、というのは、いくら、過敏な分裂病のオレには、少なくとも、ヘンだと思われるかもしれない。しかし、友人は、「これが音楽だ!」という確信をもって聴かせてくれたのである。

オケはどこだか分からない。しかし、圧倒的に自然で、魂のこもった演奏であることだけは分かる。こんな演奏を、生でも聴けるというのは奇跡だ、というものなのだが、友人は種明かしをして、実はこれはN響、NHK交響楽団の演奏であるというのである。

マタチッチとN響には名演が多いのだが、これはそんなレヴェルではない。しかも、友人によると、この演奏は、1968年のライブだというのだ。

曲は、スメタナの「我が祖国」である。ひょっとすると一般的な話ではないかもしれないが、ベートーヴェンと同じく、スメタナは聴覚障害になった人でもある。この、我が祖国、を書いている時は、もう、スメタナの聴覚はダメだったのである。

スメタナという作曲者さんだけで、感動する音楽は多い。スメタナの音楽は、野球で言えば、全て直球勝負の音楽である。

マタチッチのスメタナは、確かに、ある意味で、直球勝負なのであるが、それは、この演奏には、あまり意味を持たないことである。

オレの耳からすると、指揮者、作曲者、オケ、が全部、無意識さん?で繋がっている様な演奏である。そうでなければ、何で、冒頭の、たった一音のハープで、泣けてくるのか、オレにはよく分からない。どこかの川崎のオケの就任披露演奏会のマーラーの九番の冒頭と正反対である。もう、あの九番の冒頭の四小節を聴いて、ああ、この人は指揮者とか、音楽家になってはいけない人だと理解したが、それとは全く逆に、もう、最初のハープのタッチだけで、涙をこらえる、しかも、ライブではなくて、iPhoneで聴いてそうなのである。

マタチッチとN響の68年の、スメタナの「我が祖国」は、そういう演奏である。オレのiPhoneに入っているのは、短い、たった一曲の、シベリウスの「アンダンテ・フェスティボ」=祝祭アンダンテであるが、きょう聴いたマタチッチとN響のスメタナは、ダウンロードしないといけない。もっとも、死ぬ時は、多分、短い時間が長く感じられると思うので、シベリウス自作自演のアンダンテ・フェスティボでいいのかもしれないが、このマタチッチのスメタナは、圧倒的、というよりも、全てが対話であり、感じあっていて、それが圧倒的な音楽になる、というものである。

それを友人と聴いた後、N響とマタチッチの73年のヴァーグナーのマイスタージンガーを聴いたのであるが、最初の音は凄いのであるが、68年の響きとは違っていて、悪い意味で上手い、というか、73年の響きは、下品というか、今のN響の響きに近いのである。それでも、名演なのだが、68年のスメタナの、我が祖国、には、遠く及ばない。

68年のマタチッチの演奏が、特別な演奏であるのは確かだが、この演奏を境に、N響は衰退していくのかもしれない。実際、まだ、オレがまだ、テレビを持っていた頃、白黒の時代のNHK交響楽団の方が、品格があって、上手いとか、下手とかは別にして、感動があったのである。

もっと書きたい事はあるのだが、この演奏こそが音楽の本質であり、音楽の意味であることを痛感したのである。

この演奏を聴きながら死んでいく、というのは、オレにとっては幸福なのかもしれない。

人間はここまでやれるのである。

それを今日の演奏で確認した。

それは、オレの、人間に対する、愛、なのかもしれない。