巡礼者のブログ

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主治医の診察。先生の命日反応もあって、このところ具合が悪い。今日もそうだ。

 

そういう時期に、少佐、あるいは素子の訃報。

 

自分は声優さんの名前は知らない。だが、素子として、少佐として、自分の中では生きている。

 

現代のオーケストラは、性能を求めて、その結果、個性を失っている。

 

その中で、このオーケストラと分かる、この指揮者と分かる、このパートと分かる個性は少ない。

 

だが、自分には、素子として、少佐として、その音色と語り口は、そのまま生きている。

 

そういう存在は、自分にとっては、決して死ぬことはない。

 

あるいは、自分の中で、語る存在として生き続ける。

 

そこには、死は存在しない。

 

その様に、素子は、少佐は、存在している。

 

死んだ人は誰もいない。

 

自分の中では。

 

 

王位戦、ちゃんと観れなかった、というか、自分がぼーっとしてるというか、何もする気が起きない。ただ、幸い、きのうの熱中症もどきは、もどきで済んだ。ねぎま納豆さんは食べた。

 

ホントに調子が悪いのは、いろいろなことに興味が持てないこと。暑さでやられてるのはあるけど、それにしても好奇心が持てないとか、楽しんでいい筈なのに、楽しめないとか。そういう時期だから仕方ない、というのはあるのかも知れないけど。

 

好きなことにも手がつかない、って、単なる鬱なんじゃないかとも思うのだが、鬱の場合はもう少し酷い。暑さを理由に、外でからださんを動かす時間は激減しているのはある。天気のことはもうちょっと辛抱かな?気温が下がれば、歩く時間も増えるし、献立のことを考えながら、近所をまわることが出来る。

 

気分を変える、という文化と発想がなかった自分としては、興味が持てないということは、単にその文化の延長を生きているだけなのかも知れない。お金さんの掛からない、気分を変える何かをできると良いのだが、ネットとか、そういうものではなくて、生活の形をつくる、という意味での、気分を変える何かが必要なのだろう。

 

生活の形をつくる、という意味では、お茶の葉を、毎回同じではなく、何種類かのお茶を常備する、とか、そういうことで気分を変えるというのは出来ないのか?多分、そのためには、もうちょっと簡素な生活が必要なのだろう。空間が簡素である、とか、道具が簡素である、とか。

 

お茶を淹れるのは、大抵、モーニングページをやる前に、お水飲んで、ヤニ吸って、お茶を淹れるというパターンである。だが、ここに一つの問題?がある。実のところ、お水を飲んだ段階である種の絶望感がある。

 

というのは、お水=水道水が不味いのである。これが朝が絶望となる最初である。

 

ならば、飲み水は買えばいい、ということになるが、そこまでの根性はない、というか、売っているお水が美味いのか?というと、実際、それほどのお水とも思えない。東京の水道水、というサンプルを貰って飲んだことはあるのだが、元が良かったとしても、途中の水道管で、絶望感のお水になってしまうのだ。

 

お金さんがあれば、お水を本来のお水に戻す装置というのがあって〜今でも日本で売っているのかは知らない〜高かったのだが、自分にお金さんの余裕があったら、その装置のお水を試飲するために出かけたと思う。今では、その会社が日本にあるのかどうか?ネット上では昔のHPはなくなっているし、少なくとも日本語のページはなくなってしまっている。

 

業務用で、お水が美味い、と思えるお店さんは、都内にない訳ではないのだが、自分に必要なのは、朝の始まりのお水である。だが、そのお店に行くと、偶然であったが、このお水さん、美味い、と感じたのである。

 

朝のお水がその日の気分を決めるとしたら、お金さんを掛ける理由はあるのだが、自分にはお金さんも、道具の置き場もない。

 

自分に無理のない範囲で、お水についての道具も試してはいるのだが、自分向きのお水にはなかなかならない。

 

ただ、考えてみると、お水さんに対しても、「この水が好きな水になる訳がない。神がいなけりゃ」と言ってみる、のもありそうだが、今のところそうなってはいない。あんまりおまかせができていない?から?なのか?

 

そんな訳で、朝の一杯のお水については、今のところ絶望感のお水となってしまっている。

 

起きて最初の一杯の印象というのは、自分の場合は大切である。そこに絶望感の始まりがあるとしたら、何かしらの手を打たないといけない。

 

単にお水が美味いかどうか、という話ではなくて、その日の気分?を、最初のお水が決めていたとすると?逆に本当にそうならば、そこに時間やお金を掛ける意味はあると思う。あー、きょうも生きていけるかー、と思える最初のお水があったら、とは思う。

 

お水を買うでも、お水の装置を買うのでもなくて、何とかするやり方とか、考え方が要る。

 

あとは、不味いなら飲まない、という選択肢もある訳で、真面目に考え直す必要のあることだとは、自分の場合は思う。

 

いちばん美味かったのは、あの時のあのお水だった、という記憶があるから、うっかり、毎日の一杯に、その時の記憶のお水とくらべてしまう、というのも困ったことである。

主治医の時間の前に、動画が推奨してきたお店さんで生姜焼きを食う。なかなか美味いし、値段は高めだけど、食った意味がある。けど、お店さんを出たら、具合悪いし、症状の数からしたら、これ、所謂熱中症だろう、と。

 

冷たいお茶も買ってみたのだが、却って具合悪いとか、吐き気がする、とか。別にお店さんの食事が悪かった訳ではない。ヤバいと思いつつ、主治医の時間に行く。でも、脚とか手とか釣りまくりだし、気持ち悪いし、やっぱり熱中症かな?と。

 

主治医の時間の後、予定があったのだが、電話でキャンセルしてしまう。主治医の話では、内部から冷やさないといけない、ということで、ガリガリ君を勧められたのだが、予定を諦めたので、ガリガリ君ではなく、黒ラベルを呑んで、帰宅。暑いとなると、スーパードライだが、スーパードライの味を想像すると、却って気持ち悪くなるので、常態に戻って黒ラベルにする。

 

で、友人からのめでたい報告があって、相当常態に戻る。予定をキャンセルしなかったら、めでたい報告もリアルタイムには受けられなかった。どっかでバランスが取れてる。

 

で、具合悪いのも治って、今は大丈夫。気になるのは、気温が、このところからすると、マトモな気温であること。別に二日間地震がない、という訳ではない→でも関東でかなりの地震があったらしい、が、全然気がつかなかった。

 

まあ、これからタラタラしようか、と思っているのだが、多分、排水溝掃除の日に備えて、散らかりまくったところをなんとかしないといけない。きのうはかなりやったのだが、それでも散らかっているには変わらない。

 

散らかる?って、どんな心理なのか?って、単純に言えば、ゴミも含めて、モノに守って?護って?もらいたい、ということ。モノが多いとかもそうだ。その典型が自分の部屋。不衛生ではないけど、散らかっている。それを不衛生という向きもあるのかも知れないけど。

 

いま、手元にも、通称「カレン本」といわれる片付けの一冊がある。ある友人から貰った一冊である。その友人も当事者。彼女とお掃除モードがシンクロすると地震が来るというパターンがあるので、連絡することがある。

 

カレン本が本当に役立つかどうか?というのはあるが、自分の暮らしや人生を自分で邪魔している、疎外している、というのが、通称「カレン本」の考え方。正式なタイトルは、「ガラクタ捨てれば自分が見える」という一冊で、その続編もある。比較的最近では、新版もあるが、著者のかつての人間関係との部分とか、後から編集されていたりするので、旧版の方が文章の流れとしては自然かも知れない。

 

で、多分?深夜から?存在と捨てる作業になる?ので?まあ、タラタラして、来るべき時を待つ?という感じ。先日はかなり頑張った?というか、存在が伴走者をしてくれているので、何とかなった、ということ。勢い、今日もかな?ということ。

 

熱中症もどきはともかく、それでも生姜焼き定食は美味かったので、これからゴミ?ゴミ出しに備えて、厚揚げの生姜焼き?を作ると思う。生姜焼きというより、奥薗流としては、やる気なくとも、厚揚げに大さじ一杯とみりん一杯をレンジでチンすれば、食える、あとは生姜、ということで、最近は、これが夜食のお伴である。レンジ600Wなら2分。

 

ウチは激古のレンジで2分半。もうちょっと加熱してもいいかな?というところ。厚揚げさん、いろんな場面で高性能だわ。因みにさっきの献立は、更に小さじ一杯のお砂糖があるが、お砂糖切れてるので入れてないだけ。問題はない。きょうも買い出しでお砂糖探したのだが、ピンとくるお砂糖がなかったので、仕方ないというか。

 

で、それに生姜さんをすり下ろしたら、超手抜きでも、立派なお夜食。しかも栄養豊富で安い厚揚げさんなのだから、調子悪い、とか、お料理の根性ない、という時には最適。ホント厚揚げさんには助かってるわー、と。業務スーパーだと、更に安いし。

 

あと、多分、きょうはやらないと思うが、極貧食としても、もやしのステーキは良い。奥薗流とは違うけど、ご飯が手元にある人にはオススメ。きょうはここには挙げないけど、動画で「もやしのステーキ」って放り込めば多分ヒットする。ウチではヒットする。ただ、大葉というか、シソの葉が近所では高いので、それはやらない。シソの葉を使わなければ安価。極貧でも大丈夫。

 

いやー、そうなると、この場で、いろいろ極貧食を挙げてもいいのかも知れない、とは思う。極貧食は、意外と大変、っていうのがある、というか、大抵の場合、どっかに?→例えばシソの葉、とか、そういうのがあるけど、それを意識しなければ大丈夫なことが多い。そうすれば、別に極貧食とかではなく、立派なお料理。他の人の価値観とは関係なく、美味しければいい、というだけの話。

 

パートナーさんに極貧食を出すとどうなるのか?という懸念ごある向きもあるのかも知れないけど、見方によっては、この人、生活力ある!って評価になるのかも知れないし、ウチでは寧ろよろこんでもらえてる。お酒さんあれば、更に、ってことで。きょうは友人のお祝いで、早くに呑んでしまったが。

 

まあ、いろんな文化があるし、文化どうしの相性とかあるので、一概に、これならこう、とは言えないのであるが、どういうお料理をするか?というのも重要なコミュニケートである。あるいは、それが交わりの根源、とも言える。

 

昔、書いた記憶があるが、ネット上で気になる案件があった。どうしても離婚したい、という方の記事である。それによれば、せっかく結婚したのに、食事が不味すぎて、家に帰るのが怖いという話である。まあ、人にはそれぞれの特性があるので、どう努力しても、お料理が合ってない、とか、根性で努力しても改善できないという向きはあるのだろう。そうなると、役割分担でなんとかする、というのが、多分、そのお家に幸福をもたらすのかも知れない。そのための努力も大変なのだろうとは思うのだが。

 

まあ、自分の場合は、どうも不味いものを作るということがないのと、献立と道具にははかせなべと奥薗流というのがあるので、存在にお味のことでの苦情はない。それより、問題は片付けのことである。存在としては、粘り強くいてくれるのだが、それで自分は罪悪感を持ってしまったりするので、そこは料理が苦手な方とは、ジャンルが違えど、同じ問題である。

 

人には、向き、不向きとか、実際にあるし、不向きを克服するのが得意、とか、不向きに罪悪感とかトラウマを抱える人もいる訳で、そういうことにもっと寛容になれる気分があれば、もうちょっと世界も幸福になれるのかもしれない。

 

ムリをムリして、自分の様に発症する事例もあるので、他人にも、自分にも、もうちょっと追い詰めない過ごし方ができると、救われる人もあるのではないか?と、当事者の一人としては考えてしまう。

 

存在が、やっぱり◯◯ちゃんのお料理は美味しいよ!と言ってくれるのは、たまたまの相性と、調理器具や献立を研究されている方々の努力によっているのである。

 

そう言う方々の研究と愛情と好奇心に感謝するのである。

 

それで、なんとか、日々の生活と関係性が成り立っているのである。