巡礼者のブログ

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ネット上の婚活女子?というか、アラフォー以上の婚活女子や、結婚している〜特に専業主婦の人とかの、ネット上の話を見ていると、結局は「そうなのか」と思ってしまうことがある。

 

乱暴に言えば、相手の立場にたって考える、という発想と習慣がない、ということだと思う。言い方をかえれば、他人に対する想像力、自分に対する想像力に貧しい、という風になる。

 

その結果、ある結婚している専業主婦の人の場合、私物を捨てられて激怒した旦那さんに「出て行け!」といわれて、離婚されたり、アラフォー以上の婚活女子の場合は、相手にされなかったりする、というのが、大量の記事を見た限りでは、はっきりとした傾向に感じる。

 

専業主婦の人の場合、夫の私物を勝手に捨てたり、そのことに無神経という場合がネットでは散見される。多分、そういう専業主婦の人の場合、子供がいたとして、子供の私物も勝手に捨てるのだろうと思う。実際、そういうことはかなりあるし、ネット上の話だけではない。それがトラウマになる子供もいる。

 

女性の場合、自分の価値観で自己完結していて、そこに他人の価値観というものが入る余地はない、というか、それ自体がパートナーや子供に対する暴力そのものである。というのは、長年の個人的な経験からすると、「やっぱりほかのところでもそうなのか」と、専業主婦の人やアラフォー以上の婚活女子の記事を見ていると、納得してしまう。

 

女性は乱暴、というよりも、「他人の価値観を認めない」というのが女性の暴力性の本質だと思う。正確に言えば、「他人が入り込む余地がない」というこころの在り方をしている人が「女性」なのだ、と思う。

 

「他人の価値観を認めない」というのは、女性の話し方〜この場合、婚活女子や主婦の人の相談の口調に特有なのだが、「同意を求めて、他人を巻き込む」という言葉のパターンがある様に見える。

 

あるいは、「同意を求めることで、他人を味方につけようとする」というのがそうした女性特有の話し方であるとしか思えない。相談の様でいて、全く相談ではない。相談を偽装?した味方集めである。

 

例えば、「これをこう思いませんか?」「これが普通ですよね?」といった口調、というのが、そうした女性のパターンである。他人に同意を求めて、「自分は正しいことをしている、と確信している、自分は正しいことをしているから、周囲は同意すべきだ」という形で、他人を巻き込んでいく。

 

アラフォー婚活女子、それ以上、あるいは婚活オバサンにも、「年収一千万以上(の男性)が当たり前ですよね?普通ですよね?」というのも、「普通」「ですよね?」と、「普通=自分はムリなことを言っていないから同意すべき」というニュアンスと、「ですよね?」と念入りに、二重に同意を求めている。この二重の同意を求めることが、「女性というものの孤独」が、本人には自覚のない形で表現されているのだと思う。

 

多分?なのだが、結婚相談所のコンサルタントさんが「年収一千万とか、そのような条件では難しいから、ハードルを下げましょう」というと、婚活女子が怒り出す、というのは、条件を下げろ、と言われたから激怒するのではなくて、アラフォー以上の婚活女子の無意識は、「自分は正しいこと=普通のことをしている、言っているから、正しい自分に同意すべきだ」と思っているのに、「あなたは正しくない」と言われた、と思って、「激怒する」のだと思う。

 

結婚コンサルタントさんから、例えば、「それはいまの時代は普通ではないんですよ」と婚活女子に対して言ったとしても、婚活女子にとっては、「自分は正しいから同意しろ」と、婚活女子本人もその自覚がなく、「条件を下げろ」と言われたことに怒っているのだと、思い込んでいるのではないのか?と思う。

 

結婚相談所だから、相談所、である筈?なのだが、どうもネット上のアラフォー以上の婚活女子?〜女子、という言葉が怖いのだが〜は、相談ではなく、「注文」しに行く、ということなのだろう、と思う。言い方を変えれば、コーディネートではなく、注文通りの品を出せ、というのが、アラフォー以上の婚活女子の感覚なのではないかと感じる。やはりそこには他者は存在しない、あるいは他者が存在するという発想がないのである。

 

多分?なのだが、結婚相談所のコンサルタントさんが大変なのは、その点なのではないのか?というのが、大量の記事を見た限りでの想像である。単に、婚活モンスター、という例・場合、の話に限ったことではないのだろう。女性というものの本質には、そもそも他者が存在しない、あるいは、他者が存在するという発想と余地がない、という孤独があるからではないのか?という気がしてならない。

 

他者が存在しない、あるいは他者が存在する余地がない、というのは、女性にはありがちな事かも知れないが、女の人たちが集まって、他人の悪口を言っている場面には遭遇したり、嘘をつく傾向が高いと感じるのは、おそらく、他者、あるいは、別の価値が入ってくる「余地がないから」それらの他者と別の価値を「お祓いする」儀式として、他人の悪口を言い合う、ことと、嘘をつく、というコミュニケーション、あるいはコミュニティがあるのだと思う。

 

悪口を言い合うとスッキリする、という話があるが、それは、自分以外の価値や他者を、垢として洗い流して、自分を洗い浄めて、その結果として、スッキリと「自分しか存在しない自分に戻る」というのが、女性特有の日常なのではないか?と思う。その毎日の作業を極めると、オバサンになる、ということだと思う。これが女性の孤独の本質だと思う。感情的になる、というのもお祓いの儀式なのだと思う。それらの洗い浄めの儀式=技、を極めた姿、その完成形として、「オバサン」という存在となるのだと思う。

 

その様な訳で、オバサンというのは、本質的に孤独である。自分しか存在しない=側から見たら自己中の極み、なのであるが、自己中心的なのは、自己中ではなく、単に、他者は存在しないのであるから、それは女性の本質に戻っただけであって、その荒涼たる孤独を受け入れた姿こそがオバサンなのである。つまり、他者は存在しない、他者の存在を想定できない、他者の存在というものを発想出来ない、のであるから、オバサンというのは、究極の孤独の完成形なのだと思う。

 

アラフォー女子、それ以上の年齢の婚活の例を、ネット上ではあるにせよ、大量に見た感じからすると、その様な話になる。それは、学歴とか、年齢とか、仕事の有無とは関係なく、圧倒的な孤独というものが女性の本質であり、その完成形として、「オバサン」という存在になる、としか思えないのである。

 

オバサンといえば、◯❌の勧誘などの体験やイメージもあるが、他人にどう受け入れられるかという発想はなく、「私は正しいことをしている!」という孤独が、味方を大勢つける、というのが◯❌の勧誘であって、正しいことをしている私の味方になれ!というメッセージが、オバサン〜年齢には関係なく〜本質的にオバサンである存在の活動と発想の本意なのである。

 

「私の味方になれ!」というメッセージは、「私は正しいことをしている!」という前提にあるのであるから、そうしたオバサンの本質は権力主義である。しかし、本人たちは、その実情=自分の本質を自覚は出来ない。だからこそ、一生、本質的な孤独を自覚することはない。あるのは、権力主義と、その領域=範囲=領土=支配、を同心円状態状に「自分を中心に」拡大することであって、他者の存在を理解することがないのである。これが、オバサンの本質である。

 

自分がネット上で見た大量の記事からすると、その様な荒涼たる世界しか浮かばない。

 

しかし、ここで、婚活女子?あるいは、アラフォー以上の年齢の婚活女子と、その年代のパートナー間でのトラブルの相談?〜しつこいが、相談を偽装した、「関係ない人々に同意を求める活動」という念を入れた活動というのは、多分?ほぼ共通の世界観であって、◯❌で言えば、拝金主義によって成り立っている様に思う。

 

少なくとも、それが主な症状であると思う。つまり、自分のスペック?を棚に上げて、男性に対しては高収入と高学歴と高身長という基準で、結婚相談所に相手の男性を紹介して欲しい、紹介しろ、というのである。だが、そういうアラフォー以上の婚活女子は、相手にされないし、結婚相談所のコンサルタントさんにしても、そうした女性を男性に紹介したりは出来ないという。

 

では、結婚相談所が、この何年かどうなっているのか?というと、いろいろな結婚コンサルタントさんの話をネット上で見た限りでは、結婚相談所には、男性が登録しない、あるいは、短期間で婚活を諦めてしまう、というのが実情の様だ。しかも、女性=アラフォー以上で登録して、何年も結婚相談所にいる婚活女子は増えて、しかも時間と共に高齢化していく、ということで、婚活男性を紹介出来ないという様になってしまっている、という。

 

そうなると、結婚相談所にしても死活問題であるので、年齢や収入の有無や仕事の有無を基準とすることによって、アラフォー以上の女性会員さんを足切りする、という相談所も増えているそうだ。それはビジネスという感覚としてという意味もあるが、男性に求められない会員さんに、これ以上無駄な費用を出させない、というアラフォー女子以上に対する経済的な救済策である、とも考えられる。つまり、成婚する見込みのない女性=そうしたスペックとしての女性に対して、無い希望を与えないという意味でもあるのかも知れない。

 

結婚相談所のアラフォー以上の婚活女子については、ネット上で見る限り、他罰主義者である。男ども〜ども、とか言っているし、基本的に、婚活女子の見栄と打算と世間体にあった男性を求めているし、「貯金をするなら、女を養え!」「女を養わない甲斐性のない男どもは!」という発言も、殆どパターンというほどに、アラフォー以上の婚活女子の典型的な発言となっている。

 

つまり、奴隷としての男=ATMとして、アクセサリーとしての男を求めているのが、アラフォー以上の婚活女子、という風にしか見えないのである。そして、その多くが、「専業主婦希望」となっていて、しかも、実際にはあまり家事の経験もない、という婚活女子は、大量の記事を見る限りでは、当たり前になっている。

 

全く荒涼とした世界であるアラフォー婚活女子のことを最近知って、大量の記事に被爆してしまったのだが、「他者が存在しない世界というのは、こういうことか!」と、やっと気がついた自分自身である。

 

自分自身は、フェミニズムに洗脳され、それもあって死にたくなり、他罰主義者としてのフェミニストというものを現場で当事者として体験した一人であるが、どうも、アラフォー以降の婚活女子とフェミニズムというのは、相性がいい様である。ネット上と、自分の体験を含めて、その当事者の一人として、アラフォー以上の婚活女子の記事を大量に見ることになった。。

 

フェミニズムによる被害者の一人としての自分であるが、他罰主義が、ここまで深く、婚活女子=アラフォー以上の婚活女子に汚染されているとなると、別にパートナー関係ではなくとも、社会の一つの層としての婚活女子は、どう「彼女たち=その自分自身を認められるのか?」というのは、想像するだけで恐ろしい。

 

実際のところ、現在のネット上を見る限りでは、もう、自分の在り方を認められない婚活女子たちが、「男女平等は自分たちには損だったから、養ってくれ!」と懇願するアラフォー以上の婚活女子たちまで登場する様になっている。

 

つまり、フェミニズムではなく、「損得の上での女性優遇」の時代が良かった、と、彼女たちは言っているのである。男女平等になったら、割り勘になる、働かないといけない、その分損だ!という訳である。誠に拝金主義そのものである。

 

因みに、さっき知ったことだが、現在学生生活を送っている人たちには、フェミという言葉は悪い意味として理解されているそうだ。それは、ツイフェミと言われる人たちの発言から、フェミニズム、フェミニストは蔑視される様になったらしいのである。実際、自分もネット上で見る限り、あるいは、かつて自分自身が、洗脳されたフェミニストたちから酷い目にあった体験からして、現在学生生活をしている人たちが、蔑視対象としてフェミニズム、フェミニストを見ているというのは、隔世のの感がある。

 

今に始まったことではなく、以前から、フェミニズムに洗脳された人たち、フェミニズムで洗脳しようとする人たちは、共通して「他罰主義者であった」という事実と、「罰するためにカネを要求させようとする」という洗脳教育は、今でも変わっていない、というのを、当事者=被害者の一人として、実感をもって、多くの記事を見て思うのである。

 

アラフォー以上の婚活女子と、フェミニズムというのは、なんとも「他罰主義」という一点だけでも、実に相性がいい。そういう人たちは、本当の男女平等、男女同権なぞ望んではいない。

 

男をATMとして、周囲に対する見栄と打算と世間体として、高収入・高学歴・高身長と「若さ」を求めるのが、アラフォー以上の婚活女子なのであろう。

 

いいものを求めるという姿勢は悪くはないのだが、他者と暮らすというのは、他者という発想がない在り方にとっては、権力主義にしかなり得ない。オニババ化している自己というのを自覚できるかどうか?というのが、人としての生命線だという様に、自分には思える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徹夜状態で、何を思ったか、別の話題を書いてみる。因みに土曜日の夜は恒例のAbemaトーナメント観戦の日であるが、次回が決勝戦。将棋のことである。既に先週、チーム藤井は敗戦。

 

梅酒が無くなったので書いている?だけなのかも知れないが、珍しく、動画サイトが、男性からの婚活相談の記事を推奨してきた。婚活女子の記事や動画はやたらと沢山見ているのだが、婚活男性?婚活男子の記事は本当に少ない。

 

結婚相談所やその道のプロ=結婚コンサルタントさんの話も沢山観ているのだが、殆どは婚活女子がメインの話。因みに、婚活「女子」という言い方とか、婚活だの、妊活だの、就活だの、終活だの、という「活」の一文字が、いろんな意味で怖い。システムに飲み込まれている、というか、代わりは幾らでもいる、とか、それはそもそも人間、人間性の否定、としか感じられない。

 

スペックという言葉もそうだ。自分からシステムに身投げをする、というか、「生きられない人生」を生きる、というか、全てがデータ化され、エクセル一つで処理出来てしまうとしか思えない。そこには自由意志はなく、人間はおらず、「処理される対象」として、「数字と項目に『換算』できる」ものとして、その基準で評価されないはみ出した部分は断裁される。

 

現在の結婚相談所には、男性?男子?〜男子、とか、女子、という言葉も怖いが〜男性の利用者さんが少ない、というのと、高齢化?〜世間的にはアラフォー以上?という言い方なのだろうが、そういう女性?女子?〜その年齢以降でも「女子」と呼称される?自称する?のも怖いが〜何年も、あるいは十年以上も婚活を続ける利用者さんも増えている、と、いろんな記事では報告されている。理想の相手を見つけるために、何年?十年?の婚活?というのは、極めて強迫的?に感じられてしまい、「理想病?」とすら感じてしまう。

 

あっさり「理想病」と言ってしまうのだが、昔風な言葉なら、赤い糸、となるのかも知れないが、記事を大量に見る限り、それは理想のパートナーに出会うための疾患ではなく、「理想のスペック」=カネと若さ=見栄と打算と世間体、を満たすための「条件闘争」としか感じられない。そこに人間はいない。

 

他人事、といえばそうなのだが、ここまで世の中が「荒んで」いる、となると、自分の場合は、魂が繋がっている存在といられるのだから、本当に恵まれているのだと思う。

 

別に嫌味でそう言うのではなく、世の中が「スペック・ファシズム」として「機能して」いるのだとしか思えないのが、怖いというか、関わったら最後、とすら思えてならない。

 

「代わりは幾らでもいる」というのは、全てが「スペック」で判断されるからである。だったら、そもそも生きている意味はなく、自分がそのシステムを強要されるなら、死んだ方がマシで、実際、自殺を選ぶと思う。

 

婚活女子にも、婚活男子にも、それぞれに事情はあるのだろうが、スペック闘争に身投げをするという心理は、これもある種の自殺なのではないか?人と結ばれるのではなく、スペックと暮らす人生、それは幼児期からの承認欲求に始まって、通信簿から偏差値まで、その基準に適応する人生を送ってきたのなら、荒むのも当然の帰結かとは思う。スペックのために、自分の魂を殺すことに慣れ切ってしまうのだから。

 

自分の場合は、その結果として障がい者として生きているが、障害があっても、寄り添ってくれる魂に出会えているのは幸運だと思う。それはスペックでなく、「元来の魂に戻る」という体験と関係である。

 

結婚相談所という機能は知らないのだが、多分、スペック以外のところは、実際に本人に会ってみて判断して下さい、ということなのだろうと想像している。ただ、どうも記事になっている多くの「例」からすると、スペックでは判断できない面がとんでもなかった、という風に読めてしまうのだ。

 

徹夜状態で、たまたま推奨された、ある婚活男子さんが、女性に対して、「自分のスペックはどんな感じなのか、女性から教えて欲しい」という投稿からすると、コメントする女性さんたちは、見事に「スペックをスペックで評価」していて、そこは、人間が存在できない、恐ろしい世界にしか見えなかった。

 

スペックでスペックを評価する、という、このやり取りからすると、婚活というのは、「ビジネス」なのだ、と、ある意味で腑に落ちた。結婚は結婚生活ではなく、「ビジネス」なのだ、と、やっと気がついた。

 

全てのビジネス化、というのは、自分にはムリな世界なのであるが、そこに適応する意味が自分にはない。夫婦は他人、という言い方は、何人かのベテラン夫婦の女性から聞いたことはあるが、それは昔の話で、いま求められているのは、「夫婦関係とはビジネス」ということなのだろう。少なくとも、多くの婚活女子の言い分を見ている限りでは、そうなのだ、と。

 

さっきの、ある婚活男子さんへの、女性からのコメントには、一つとして、「お互いに尊敬できることが大切」という言葉はなかった。全ては、「スペック=条件」で語られていたのである。

 

仕事に行っても、家に戻ってもビジネスで、そこには安らぎというものは存在しないのかも知れない。実際、かなりの多くの記事で、専業主婦希望だった女性は、仕事から帰った男性に対して、専業主婦は24時間365日働いているのに、家事をやらない男性はおかしい、という様な言い分が、破壊的な結果となり、却って専業主婦希望だった専業主婦さんは不幸のドン底に叩きつけられるという話は多い。あくまで記事からすると、なのであるが。

 

因みに、外国人男性の共通認識からすると、日本人女性とは絶対に結婚するな、というのがあるらしい。そういう記事はかなり見たのだが、婚活女子関係の記事からすると、そう言われるのはごく自然なこと、と納得してしまった。それは興味のある人は調べたらいいとは思うが、別に外国人男性でなくとも、日本人女性と結婚するのは危険である、というのが、大量の記事を見ての感想である。

 

スペック・ファシズムの自覚がなく、婚活女子はスペック・ユーゲントなのであろう。

 

恐ろしいものを随分とたくさん見てしまったものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徹夜になってしまうのか?という状態で、なんとなく書いてみようと思った。

 

近所には二つの最寄りの駅があるのだが、最近、駅のトイレを使わせてもらえなくなった。というか、入場券を買わないとトイレに入れないということになったそうである。

 

これは自分にとっては切実な問題で、買い出しの途中では、大抵、駅の構内のトイレにお世話になっていた。ところが最近、「トイレ貸して下さい」と言ったら、入場券を、と言われる様になったしまった。他に周りにトイレがある訳ではなく、公衆トイレもなく、貸してくれるお店さんがある訳でもない。

 

先日は、辛くて、仕方なく某喫茶店に行き、トイレに駆け込んでから、お茶をそのお店で注文して、飲んだ。トイレ一つで、お茶代が400円近く要るのである。

 

もちろんその一つの駅な近くにはコンビニもあるが、一軒ではトイレはなく、もう一軒では「買わないのにトイレだけ使うな!」という貼り紙があるのである。因みに後者の店員さんたちは、片言の日本語の外国人さん?なので、その人たちが書いて貼ったという訳ではなさそうである。

 

そんなことがあって、買い出しに行くもの怖いし、買い物をしたくなる様なものが、そのコンビニにある訳でもなく、お茶代を払ってトイレに行くというのは、経済的に無茶な自分である。

 

そうなると、どうするのか?というと、その近所の二つの駅周辺では、買い出し、買い物を控える、ということになる。買い出しは、主治医の病院近辺=自由に使っていいトイレとか、公共施設とか、公衆トイレとかたくさんあるので、病院に行く時に、病院の近く「だけで」買い出し、買い物をする、という日常になる。

 

自分だけがそうなのかは知らないのであるが、近所の駅が一斉にトイレを貸してくれなくなったことで、その周囲で買い物をしなくなる、となると、そうした駅周辺では、それなりの経済的・商業的損失が出ているのではないか?ということになる。

 

自分自身の最近の生活からすると、そういう想像になってしまうし、小さな子供とか高齢者さんとか女性は、どうしているのか?と考えてしまう。その介助者としても、困った、ということになっているのかもしれない。

 

ということで、移動とは別にして、駅でトイレを借りられない、ということで、自分は自分自身に行動制限をすることになった。お酒さんも含めて、なるべく、通院の時だけ、自由に入れるトイレが幾つもある地域だけで買い出しをする。

 

となると、オーバーに言えば、地域経済としては、自由に使えるトイレがないことで、既にそれなりの損失が出ているのではないのか?と想像することは出来る。あるいは、トイレを貸してくれるお店では、売り上げが上がることになるのではないのか?ということはあり得ないことではない。

 

このペースと、自分の行動範囲からすると、既に、その近くの駅の商店街には、今月分だけでも一万円近くを払っていない訳で、逆に、主治医の病院のある駅周辺とそのお店さんには、前月分よりも多くお金さんを払っている、ということで、今月分の消費を考えると、この三つの駅の地域では、自分の消費の傾向に、前月分と較べてハッキリと差が出ている、ということになる。

 

その鉄道が、どういう意図で、トイレを自由に貸してくれなくなったのかは、まだ知らないのだが、ひょっとしたら、ある種の「実験」をしているのかもしれないし、駅というものが公共性を失って、お金を使う人だけが関係を持てる場所になった、ということかも知れない。

 

ということで、「全てはお金」というだけの話なのかも知れないが、それが地域での消費に、たった一人の自分でさえ、消費する地域が変わったのであるから、総合的には、その二つの駅周辺では、生理現象的には安心して買い物が出来ないので、その地域で買い物をするのを止める、という選択肢しか、少なくとも自分の場合には、残されていなくなった、というだけの話である。

 

更に極論するとしたら、ああ、もう、そういう鉄道を使うのはやめよう、ということになって、主治医の病院も、天候が悪くなければ歩いても行ける距離ではあるので、その鉄道そのものにお金を使うことがなくなる。少なくとも、自分自身に限ってではあるが。

 

そうなると、高齢者さんとか、小さな子供には、オムツを着ける、という話にはなるのかも知れないが、年金生活者さんに、それだけの余裕があるのかは分からないし、小さな子供と言っても、オムツを着けるのは嫌だという子供もいるだろう。となると、その鉄道会社さんがやっていることというのは、少なくとも公共福祉的ではないし、酷い言い方をするなら、人間というものは、大抵の場合はからださんがある、という「事実」を無視して、全てはお金として勘定している、というだけのことかも知れない。

 

鉄道にしても、企業がやっている以上は、利益が出なければ、給料にも、今後の運営にも影響が出るのだろうし、お金を貰うというのは当然のことである。

 

しかし、トイレを自由に貸して貰えないことで、自分の今月分の消費には、既に偏りが出てきているし、トイレが借りられないなら、電車に乗らなくても、その鉄道会社に義理を感じる必要もない、となって、その鉄道会社の収入にも、微妙な影響が出ている筈〜自分の消費に限っては、既にそうなっている〜訳である。これが毎日のこと、となると、ひと月でも、決して馬鹿に出来ない金額になるのは明らかである。

 

正しく、本末転倒、ということになるが、駅の構内のトイレが自由に使えないとなると、自分一人に限っても、一週間で、消費と消費する地域が変わってしまったのである。地域の商店街さんにしても、鉄道会社さんにしても、自分にしても、「誰の得にもならない」ということで、鉄道会社さんは、やらかした、というか、そういう現象が、バタフライ・エフェクトになる、というのを、想定出来る人材が内部にいなかったのだろう。

 

もとに戻して欲しいというのはあるが、そこまで鉄道会社さんに期待しても、あんまり意味はない、ということで、鉄道会社さんの新しい方針に「適応する」となると、こういう選択しかなく、仕方ないが、あーあ、という感じなのである。