朝の一杯、って、考えると... | 巡礼者のブログ

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王位戦、ちゃんと観れなかった、というか、自分がぼーっとしてるというか、何もする気が起きない。ただ、幸い、きのうの熱中症もどきは、もどきで済んだ。ねぎま納豆さんは食べた。

 

ホントに調子が悪いのは、いろいろなことに興味が持てないこと。暑さでやられてるのはあるけど、それにしても好奇心が持てないとか、楽しんでいい筈なのに、楽しめないとか。そういう時期だから仕方ない、というのはあるのかも知れないけど。

 

好きなことにも手がつかない、って、単なる鬱なんじゃないかとも思うのだが、鬱の場合はもう少し酷い。暑さを理由に、外でからださんを動かす時間は激減しているのはある。天気のことはもうちょっと辛抱かな?気温が下がれば、歩く時間も増えるし、献立のことを考えながら、近所をまわることが出来る。

 

気分を変える、という文化と発想がなかった自分としては、興味が持てないということは、単にその文化の延長を生きているだけなのかも知れない。お金さんの掛からない、気分を変える何かをできると良いのだが、ネットとか、そういうものではなくて、生活の形をつくる、という意味での、気分を変える何かが必要なのだろう。

 

生活の形をつくる、という意味では、お茶の葉を、毎回同じではなく、何種類かのお茶を常備する、とか、そういうことで気分を変えるというのは出来ないのか?多分、そのためには、もうちょっと簡素な生活が必要なのだろう。空間が簡素である、とか、道具が簡素である、とか。

 

お茶を淹れるのは、大抵、モーニングページをやる前に、お水飲んで、ヤニ吸って、お茶を淹れるというパターンである。だが、ここに一つの問題?がある。実のところ、お水を飲んだ段階である種の絶望感がある。

 

というのは、お水=水道水が不味いのである。これが朝が絶望となる最初である。

 

ならば、飲み水は買えばいい、ということになるが、そこまでの根性はない、というか、売っているお水が美味いのか?というと、実際、それほどのお水とも思えない。東京の水道水、というサンプルを貰って飲んだことはあるのだが、元が良かったとしても、途中の水道管で、絶望感のお水になってしまうのだ。

 

お金さんがあれば、お水を本来のお水に戻す装置というのがあって〜今でも日本で売っているのかは知らない〜高かったのだが、自分にお金さんの余裕があったら、その装置のお水を試飲するために出かけたと思う。今では、その会社が日本にあるのかどうか?ネット上では昔のHPはなくなっているし、少なくとも日本語のページはなくなってしまっている。

 

業務用で、お水が美味い、と思えるお店さんは、都内にない訳ではないのだが、自分に必要なのは、朝の始まりのお水である。だが、そのお店に行くと、偶然であったが、このお水さん、美味い、と感じたのである。

 

朝のお水がその日の気分を決めるとしたら、お金さんを掛ける理由はあるのだが、自分にはお金さんも、道具の置き場もない。

 

自分に無理のない範囲で、お水についての道具も試してはいるのだが、自分向きのお水にはなかなかならない。

 

ただ、考えてみると、お水さんに対しても、「この水が好きな水になる訳がない。神がいなけりゃ」と言ってみる、のもありそうだが、今のところそうなってはいない。あんまりおまかせができていない?から?なのか?

 

そんな訳で、朝の一杯のお水については、今のところ絶望感のお水となってしまっている。

 

起きて最初の一杯の印象というのは、自分の場合は大切である。そこに絶望感の始まりがあるとしたら、何かしらの手を打たないといけない。

 

単にお水が美味いかどうか、という話ではなくて、その日の気分?を、最初のお水が決めていたとすると?逆に本当にそうならば、そこに時間やお金を掛ける意味はあると思う。あー、きょうも生きていけるかー、と思える最初のお水があったら、とは思う。

 

お水を買うでも、お水の装置を買うのでもなくて、何とかするやり方とか、考え方が要る。

 

あとは、不味いなら飲まない、という選択肢もある訳で、真面目に考え直す必要のあることだとは、自分の場合は思う。

 

いちばん美味かったのは、あの時のあのお水だった、という記憶があるから、うっかり、毎日の一杯に、その時の記憶のお水とくらべてしまう、というのも困ったことである。