宇宙科学ではこれ以上分解できない物質を
素粒子と名付けます。
仏法では釈尊は、
この素粒子を当時の人々に分かる例えとして
「塵」としました。
五百塵点劫や三千塵点劫といった表記は
目に見える分かりやすい例えとして
「塵」と表現したものです。
釈尊はこの「塵」が素粒子であることは
解っていたと考えられます。
何故なら「久遠」の捉え方が
まさに原形の素粒子の集まりと捉えていたからです。
ここでいう「久遠」とは
いわゆる「久遠元初」以前を指します。
仏法では『久遠』とは
すべてが仏であり、すべての仏が一仏である
状態を示します。
このような状態は、宇宙科学から見ると、
七次元以上の空間で可能であり
それ自体がエネルギーを持った素粒子が、
物質的にも性質的にも完全に均一で
完全に安定した状態を保った宇宙空間と言えるのです。
現状の宇宙科学では、ここまで辿り着ける状況にはありません。
今後の宇宙科学の進展が望まれますが、
仏法を基底として考察すれば、
より早く宇宙科学の進展も望めるので、
宇宙科学を志す方は、仏法理論は必須とお考え願いたい。
反面、仏法者と自認する方々も、
仏法とはそもそも科学よりも科学的だという事を、
心に命じるべきと問うものである。
『久遠』を仏の集合体の一仏とするからこそ、
仏法では万物に仏性が有るとする。
これが「本来の仏」=「本仏」ということです。
ただしこれは、あくまでも『久遠』からの考察です。
我々の今いる宇宙は「久遠元初」の時とされます。
『久遠元初』の本仏は特定されます。
これが「文底下種仏法」とされるものです。
多くの方がご存じないですよね。
「文底」ってなに?
まずはこれから。
「文底」とは
法華経如来寿量品にある
「我本行菩薩道」の解釈にあります。
この前に釈尊は久遠の成道を説きます。
誰もが釈尊こそが元から仏だったのだと思った時に
我(釈尊)は本(もと)は菩薩道を修行していたと
解き明かしたのです。
これは釈尊が元から仏であったわけではなく、
仏(本仏)から教えを授かり修行をする菩薩だった
ということなのです。
では釈尊に教えを授けた仏とは?
ということになりますよね。
これが「文底」ということです。
次に「下種」ですが、
仏法では、下種益、熟益、脱益、をあげます。
釈尊は五百塵劫もの間
衆生を調機調養(じょうきじょうよう)し
機根を成熟(熟益)し得脱(脱益)させたと説きます。
釈尊の化導に漏れた衆生を
下種益の衆生とします。
下種益の衆生は釈尊では救えない衆生ということです。
この釈尊では救えない衆生を救うのが
「文底下種の仏」になります。
釈尊は大集経という経典で
自らの教えは二千歳までしか救う力が無いとしました。
釈尊の法が衆生を救う力が消滅する時を「末法」と呼びます。
五百塵点劫もの長遠な間
無量の衆生を説法教化してきた釈尊が
何故この地球では、わずか二千歳(2000年)しか
衆生を救う力が無いのか。
この点を疑問に思わない方が、
不自然ではないでしょうか。
現代仏教が単なる気休めの教えとなっている
本質的な問題点がここにあります。
「文底下種仏法」での教えとは何か。
「文底下種仏法」を広める人がありとすれば
それこそが『本仏』とすべきではないか。
『本仏』を明らかにすることは
「一念三千」を明らかにすることにも通じます。
結論から言えば
釈尊が説こうとして説けなかった法であり
本仏から授かった教え(法)とは
「南妙法蓮華経」ということになります。
つまり「南妙法蓮華経」は本仏にしか説けない法。
では「南妙法蓮華経」を初めて衆生に説いたのは。
という論理の帰結になります。
「南妙法蓮華経」とは宇宙の根本法則を顕したもの。
とは、受け入れがたく、納得できない。
大丈夫。それを「凡夫」と言い
ひとたび信受すれば「名字即」となり
正しい本尊に祈れば、それが仏因となり
「凡夫即極」つまり凡夫のままで仏と成る。
それが、日蓮仏法の教義です。
残念なことに、すべての日蓮宗各派は
この事に迷っていますが…。