論争までは行ってません。
某番組で、
古文(の授業で習ったこと)が必要だった(役だった)ことは無い(=古文の授業って要るか?)
と語ったコメンテーターがいて、
賛否がちょこっと盛り上がったらしい。
盛気味に語ったのであろうが、そのコメンテーターにとっても全く不要だったことはあり得ないと私は思いますね。
ましてやテレビや人前で話す機会の多いお笑い系のタレントは、なんなら1日1回は古文由来の言い回しを口にしていてもおかしくない。
面白くしたり強調したりする際のテクニックで古文テクを本人が知らず知らずかもしれないが駆使しちゃってると思います。
また、よっぽど無関心な人生を送らない限り、俳句・短歌の一節のひとつや二つは自然にインプットされていて、意味も知らず知らずに知っちゃってたりしてるハズだ。
古文の授業は、興味が湧かなければ、ちんぷんかんぷんで苦痛に近い。
しかし、それでも頭に入っちゃっていることがあるのだから、人間の頭脳は優秀だ。
そんないつのまにか頭に入っちゃってた古文知識がその後(それ以前)の俳句・短歌や古文の一節と生活上でバッティングした時に、
ああなるほど、そういうワケねと地味に役立っているハズです。
そんな些細な地味なことのために通算何十時間も退屈な古文の授業を受けるのは、やはり無駄とは言わずとも非効率の極みだ!と言う人が多いでしょうね。
教養のタネ撒き、その時期が中高生の年頃が早過ぎず遅すぎずということで教育に組み込まれているのだろうと思います。タネ撒きだけでは中高生は水もやらないだろうから 発芽して二葉が出るくらいまでは授業を続けるというアフターサービスを提供しているのだと解釈したらどうでしょうか。
俳句・短歌は、ひそかにだけど繰り返しつつブームが来ております。
現代口語で作ることも反則ではありませんが、古語で詠むとカッコええ~のです。自分も古語を操りたい~と歯ぎしりしたくなる。
そんな時に古文をもうちょっと真面目に聴いとけばなぁ~と思ったりする。
古語は説明がましくなく、余韻や言外の意味も持ち、短いフレーズで深い ニュアンスを持たせられる。深みを感じ取れた日本民族の優秀さも有るのかもしれないが、公用使用しないまでも絶やすなんてことは勿体ないにも程が有る。
なので、タネ撒きは重要ですよね。
問題なのは、あの科目要らなくね?と思わせちゃう、授業方法の方に多く有りそうではないだろうか?
脱線の多い面白先生の授業は、頭に残るしね。
それと大学入試に古文を問題として出すことは、単にハードルを増やしているだけにすぎないように感じる。
古文は教養なのでね。