- ガブリエル・ガルシア=マルケス, 木村 榮一
- コレラの時代の愛
- 保坂 和志
- 小説の誕生
ころころと風に転がる哀しみもあったんだ。西加奈子の新刊『通天閣』を読み終わり、そう思った。『あおい』、『さくら』、『きいろいゾウ』。こんなに新刊を待ち焦がれた作家も久しぶりだ。いそいそと本屋に行って早速購入。しかし、期待が膨らみすぎたのと、もったいなくてうじうじ装丁を眺めていたが、やっと読み始めて......うーん、やっぱり西加奈子だわ。期待を裏切らないわ。感動したわ。そして、なんか、風に転がる哀しみもあるんだよなって、椎名誠のタイトルみたいな読後感が残った。別に、作中に風が吹いているわけではないのだけれど。
舞台は、大阪ミナミ、『明かりがついているときには「じゃんじゃんいきまひょ」とでも言うかのように、飄々と信用ならないおっさんの雰囲気をかもし出しているのに、明かりが消えた途端、妙に殊勝になり、「わてなんかこの世で何の役にもたってまへんのや」と情けないような表情を見せる』通天閣の見える町で交差する二人の物語。
44歳の中年おっさんは、「ライト兄弟」や「足元てやしまっせー」と言うふざけたネーミングの「百円ショップやコンビニに卸す」懐中電灯などの部品を作る工場ラインで働く。以前、子連れの女性と結婚したが「あいつと一緒に暮らしていたときの方が、俺にとってはまやかしの人生だったと思う。俺には家庭を持つこととは無理だったし、まして、他人のガキと一緒に暮らすことなんて、ほとんど不可能なことだった」と思い、「誰からも期待されず、誰にも期待せず、ただ毎日自分が決めたことだけをこなしていく毎日」を過ごしている。そうして、新世界のアパートで栄養不足から脚気になったりしながら、なんとなく毎日を過ごしているが、職場に入った新人の妻が出産すると「行けっ。」「阿呆、病院、行ったれ!」ともじもじする新人を叱咤激励するところもある。そうして、別れた女の「ガキ」について「ガキが、堂々と甘えてくれたら良かったのかもしれない、膝の上に乗ってきたり、手をつないでくれとせがんだり、そんなことをしてくれれば、俺たちの生活も、変わったのかもしれない」と悔やんだりする。そんな哀しみは彼に「俺が死んだそのことで、嘆く奴は数えるほどもいないだろう。情けなくて、情けなくて、本当に死にたくなった。そうだ、俺は、死にたい。なんなんだこの人生は。なんだこの、人生は。」と思ったりもするが、そんな人生が「嫌でなかった、悲しくもなかった。」と嘯いている。
もう一人はミナミのスナックに勤める女。同棲していた恋人の「マメ」(映像作家を目指している)が「ニューヨークに行く。」といって留学してしまってから、「夜を埋める仕事をしようと思い」、『「スナックで働いている」ことで、マメがしでかした私への仕打ちの大きさを気づかせようと」して、「チーフ」として夜の店で酔客を相手しながら、店のトイレの鏡に「私たちは、別れたわけではない。」と独り言ちたりしている。「・・・・・・好きな人が出来てん。ごめん。別れたい。」とマメからの電話に、「ゲロを吐いて」、置き忘れていったマメのセーターでゲロを拭きながら「うち、マメにフラれてん。」とまた、独り言つ。そんな彼女の哀しみは、『夢に向かって頑張っていないと駄目なのか、何かを作ってないと駄目なのか。自転車でバイト先に向かい、阿呆の相手をして、マメのことだけを思って眠る生活をしている私は、駄目なのか。「きらきら輝いて」いないのか』と思い、「どれだけ泣いても、涙が止まらなかった」りする。
そんな二人が、通天閣で交差する(ネタバレになるので何故かは言えないのですが)。通天閣の上には今まさに飛び降りんとする一人の男がいた。その男「Mr。ダマー」(44歳男の隣人)に彼が叫ぶ「お前のことがっ、好きやああああああああ!!!」とそして彼女も叫ぶ「雪や!」と。そして、二人の人生が一瞬交錯すると彼は思う、涙を流しながら、「俺には、お前が必要だった。お前は皆に愛されるべきガキだった。捨てていった俺を、恨んでもいい。どんな風に思ってくれてもいいから、せめて、せめて、幸せでいてほしい。幸せでいてほしい!」と。そして、彼女は思う、「愛してくれるのだろうか、ではない。愛そう。」と。
哀しみは風にころころと吹かれ転がるように、いつかはなくなるのかもしれない、癒されるのかもしれない、気張って振りほどかなくても、少し恥ずかしくても、嘯いていても、ちょっと踏み出せば必ず......そう思えた一篇でした。
打海文三の『愚者と愚者』を読んだ。前作、『裸者と裸者』の続編だ。残念だが『裸者と裸者』は読んでおらず(『愚者と愚者』読了後、早速購入したが)続編から、いきなり読み始めたのだが、これが面白い。いや、装丁からただのエンタメ文学かライトノベルだと、思っていたが、これが深い。うーんと考えさせる作品になっている。
ストーリーは近未来と思われる日本が舞台。「男根主義と卑屈なナショナリズム」が跋扈する軍事勢力に率いられた、血風吹きすさぶ16年の凄惨な内戦の後、首都圏は常陸軍、仙台軍、宇都宮軍と旧政府軍に微妙なバランスの上で分割統治されている。軍事的疲弊から、各軍は暫定統治評議会を設置、首都圏特別州議会選挙の実施をもくろむが、内戦前後に大量に流れ込んだ、外国人の選挙権をめぐって、それに反対する「我らの祖国」なるナショナリスト集団がテロ攻撃を加える。常陸軍の若き司令官、佐々木海人はテロを抑えるために、自らの孤児部隊を率いて鎮圧に乗り出すが....... 各軍事勢力の構成員は、孤児や外国人であったりゲイであったり、レズビアンや女の子だけの武装集団があったりと多種多様。その中でゲイ差別をめぐる組織の分裂があったりと、めまぐるしく力関係が移行してゆく。ただ、その内実は敵を見定めることによって、自らの組織力を強固にしてゆく、手段にすぎなかった。そのため、ゲイや外国人は常にスケープゴートとして悪魔の供物のように提供される必要性があったのだ。「ゲイ」や「外国人」をイデオロギーや宗教に変えるとこれはまさに近現代の戦争とナショナリズムの発生のメカニズムと酷似している。
自らと異質なものを定義し、排除する中で自己のアイデンティティを強固にしてゆく、アイデンティティが揺るがされるたびに(なぜならそれですら自己を仮想もしくは夢想するしかない幻想だから)新たなスケーブゴートを必要とする、現代人の悲劇の連鎖はいかにしたら解決して、自由を獲得できるのか?
「ゲイも解放運動の歴史があるんだけど、彼らの方がいろんな生き方ができる。なぜかと言うと、男根主義的で異性愛強要主義的な支配体制のなかで、ゲイ文化はそれなりの位置をしめてるんだ。ある意味では、支配体制を強化している」
「ほんとうは、ある人間を、ゲイだとかレズビアンだとかトランスジェンダーだとか、定義すること自体がばかげている」
このように語る、海人の友人、月田椿子(少女、ギャング団、パンプキン・ガールのボス)の軽やかさの中に、自由への萌芽が見える気がするのだが......
「わかった、女の子を定義しよう」「自分で女の子だと思えば女の子。それが女の子の定義だ。」そういって、AK片手に「でたとこ勝負」の闘いを挑む椿子。彼女の奔放な自由の中に真の解放の萌芽があるような気がするのだ。
何故だか、読んでる間中サンボマスターの「絶望と欲望と男の子と女の子」が頭の中に流れていた、映画化したらテーマソングはサンボで決まりだね、なんて勝手に思ったりしながら。そういや常陸軍の発祥の地、ひたち海浜公園で夏あったフェスでは演奏されたのかな?この曲。
私の郷里の田舎町には本屋が2軒あった。一軒はO書店で、駅前に立地し、新刊本や新しい雑誌が大きな平台に並び、学習参考書も豊富にそろっているので、同級の中学生達は、もっぱらこちらの書店を利用していた。店先に中学生達が喜びそうなスナック類を扱うスタンドも出ていて、放課後の溜まり場のようになっていた。もう1つは、場所こそ学校から歩いて5分ほどの近場にあるのだが、プレハブつくりの住居兼店舗は農機具をしまう納屋ほどしかなく、しかも店主の老人がまるで漫画の中の登場人物のように、はたきをもってうろうろしていて、立ち読みをしようものなら、まるでハエを追っ払うかのように、そのはたきでパタパタやられてしまうT堂書店。T堂書店の品揃えは、いつから並んでいるのか分からないような日に焼けた家計簿や、NHKのテキストの類がやけに目立つ雑誌コーナー、平積みには「蛍雪時代」や「小学○○生」といった雑誌に並んで「平凡パンチ」、「プレイボーイ」が並び、奥まったコーナーにはビニールに包まれた怪しげな写真集が並んでいた。もっぱら、その怪しげな本で商売を成り立たせているようなところがあった。だから、T堂書店に行く中学生はもっぱら、どきどきしながらそのテの本を買いにゆくのが目的で、その後ろ暗さから、店先はなんとなく陰って見えるし、そこに入ろうとするのを同級生に見られたら、翌日、からかいの的になるのは必須だと思われた。
その頃、何故か私は「文学に目覚めた」と思っていて、「シャーロックホームズ」や横溝正史、O・ヘンリなどでは読書の要求が満たされず、川端康成や夏目漱石、太宰治、三島由紀夫、谷崎潤一郎などを耽溺していた。言ってみれば、根暗で早熟な嫌な奴だったのだ。始めこそO書店で「坊ちゃん」や「こころ」の新潮文庫版を買って、嬉々としていたが「明暗」や「細雪」などになってくると、何故か「こち亀」や「筋肉マン」の漫画本に「明暗」の文庫本を挟んでレジに持って行くようになったりした。周りに同級生がいないことを確かめたりして。何故だか、「大人」の読む「文学」に惹きつかれてゆく自分を後ろ暗く感じ、淫靡なこと、秘密めいた秘儀を自分がやっっているような気がしたのだ。今思うと、ものすごい自意識の発露だと思うが、その頃は、真剣だった。
そして、そのこそこそした読書遍歴は畢竟、私をT堂書店へと向かわせた。あのビニ本の並ぶ棚の後ろには、新潮文庫、と岩波文庫の棚が何故だかそこだけモノクロのように静かにあったのだ。こそこそと、その棚を物色し、ヘッセやスタンダール、ドストエフスキーを知った。売れ筋とかにまったく無頓着の店主は、ビニールのビジュアル誌の仕入れに忙しく、その棚は自然、売れ残りの文庫たちが、天を日に焼かれて茶色く変色した体をさらしていた。その売れ残りは、結果として「名作」そろいだった。「車輪の下」が買われたスペース(もちろん私が買った)はいつまでも文庫本一冊のスペースを空けていた。私は天の茶色が濃いものから購入すればよかったので、気が楽だった。茶色が濃ければ濃いほどなぜか「名作」だった。そして、私が購入した棚が空けばそこにぽっかりと隙間ができた。その空間こそ「世界に一冊」の「名作」の証のように思えた。
今日、書庫を整理していたら、ほとんど真っ黒に日に焼けた新潮文庫の『ヘミングウェイ短編集』が出てきた、懐かしくなってその中の「心が二つある大きな川」を読んでいたら、T堂書店のことを思い出した。そういえばこの文庫もT堂書店で買ったものだった。少年の日の読書、私は、あのT堂書店の暗い、淫靡な棚に育てられたのだと思った。
犬をめぐる小説を2篇読んだ。一篇はポール・オースターの『ティンブクトゥ』といまひとつは、古川日出男の『ベルカ、吠えないのか?』である。2つとも、それぞれにすばらしい。
ポール・オースターの作品は主人を失った犬、ミスター・ボーンズが主人、ウィリーへの深い愛情を失うことなく、亡くなった人の国「ティンブクトゥ」に逢いにゆくという物語。ウィリーはホームレスとして全米を旅しながらどうしようもない詩作に励み、ついには路上で帰らぬ人となってしまうのだが、ミスター・ボーンズはそんなダメ主人にも強い愛情を持っていて、ウィリーがなくなった後、偶然、裕福な家庭に拾われるが、ウィリーへの愛を忘れられず、「ティンブクトゥ」への旅路へと向かう。ラストには涙を禁じえない。
古川日出男の「ベルカ、吠えないのか?」は軍用犬として、戦争に翻弄されながらも誇り高き、生き方をする犬達の物語。冷戦下、米ソはお互い相手を出しぬこうと軍拡競争に明け暮れる。両国はついに宇宙にまでその競争を拡大し、やがて人工衛星に2匹の犬を乗せて、その力を誇示する。その宇宙から帰還したベルカはやがて、そんな時代の波に、優秀な軍用犬として飲み込まれてゆく。一方では、第二次大戦下のアリューシャンン列島で、偶然、邂逅した、日米の軍用犬「北」、「正勇」、「勝」、「エクスプロージョン」はこれまた、優秀な軍用犬の始祖としてその時代を築き始める。朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタンへのソ連の侵攻。激動する時代の中で、ベルカの子孫と日米の軍用犬の子孫が出会い、壮大な、世代を超えた犬の叙事詩が描かれている。そして、時代の変化とともに犬達の運命にも悲劇が訪れるが......
オースターの方はダメ主人に、古川日出男の方は、戦争の時代に翻弄される犬達だが、その無辜の目には、深い愛情と、自分を知る深い洞察があり、そんな犬達の物語には痛切に人間の身勝さを知らされるのだ。


真鶴半島を訪れた。半島に広がる原生林の杜で紅葉を楽しもうと思ったのだ。海からの風が思った以上に温かく、樹々は鬱蒼とした葉を茂らせ、秋とは思えない強い日差しを受け、地面に黒々とした陰を引いていた。蝋質をまとって、てらてらと光った常緑樹の森は紅葉どころか(っていうか常緑だから紅葉しないのかとそのとき気づいた)、いまだ夏の名残が色濃かった。
仕方がないので、「内袋観音」に参った。観音さまは、遊歩道を外れた、森の奥を進んでいくと、小さな入り江があり、その奥の崖の祠に祭られている。以前、この入り江には朽ち果てた水族館の廃墟が放置されており、常緑の森の薄暗い陰の中で不気味な邪気が漂っていた。じっとりとぬめりを帯びた空気の中に、水族館は誰も訪れない竜宮城の体を荒れるにまかせてさらしていた。このことは、田口ランディの「廃墟の観音」というエッセーにも詳しいので関心のある人は読んでみてください。
今は水族館は取り壊され、乾燥した空き地が広がっていた。観音さまも心持、乾いた潮風に吹かれているようだった。以前は子供達のはしゃいだ声が聞かれてであろう竜宮城は、台風で朽ちてからは静かに、そして打ち捨てられたものの念をじっとりと染み出させながらあったのだが、「崩落の危険」があるとのことで取り壊されしまった。日の射す空き地を見ていてあの漂っていた邪気はどこにいってしまっただろうと思った。
取り壊された廃墟の前の海には、水族館の取水施設なのだろうか、コンクリートで固められた50メートルプールのような構造物が3つ残っていた。コンクリートは一部で崩れ、外海の新鮮な海水が少し入るのか、人工のタイドプールは透きとおった海水をたたえ、小魚たちが泳いでた。
壁面を見ると、あわびのようなものが張り付いているのが見えた。かがんで水中を覗き込むと、そのあわびのようなものは頭ともお尻とも思えないのをわずかに左右に振っていた。腹ばいになって水中に手を伸ばし、触ってみた。「うへっ!」私は思わず手を引っ込めた。ぬちゃぬちゃした感覚が残った。「何ナノかなぁ?」とつれあいが聞くので、「『ぬちゃ』だ!あれは『ぬちゃ』だよ。」と答えた。『ぬちゃ』はその黄色い腹を見せて、ゆらゆらと水中を落ちっていった。よく見ると、壁面、海底に『ぬちゃ』が数多くうごめいていた。あのぬちゃぬちゃする感覚だけでなく、以前、廃墟があったころ、周りに漂っていた邪気が行き場をなくしてその生物に宿っている気がしたからだ。水族館を造り、台風で壊れて用を足さなくなると放置し、そしてまた、危険だからといって壊す人間の勝手。以前の観音さまは邪気をまといそんな人間を怒ることを示していたように思った。でも廃墟が壊され乾燥した大地には邪気の行き場がなかった。観音さまはいまだ一人怒っているように思えた。願わくば、その人工のタイドプールが今度の、大波で壊れ『ぬちゃ』が大海で自由に泳ぎだしますように。そう、観音さまに願わずにはいられなかった。(*写真奥の祠が「内袋観音」 *『ぬちゃ』は軟体動物門腹足亜綱鰓上目の生物の一種だと思う)
三浦しをんの描く男達は、どうしてこうも不器用なのか?気持ちを伝えられず、人から誤解されそして、そのことにいたく傷ついているにもかかわらず、露悪的に振る舞い、さらに傷ついてゆく。そしてマジになることを嫌う。直木賞受賞作『まほろ駅前多田便利軒』の多田しかり、『風が強く吹いている』の蔵原走しかり。他人を信用しない彼らが、一見自分とは正反対の男と出会い、その中に自分とどうしようもなく似ているころを見つけ、マジになる。そして初めて人のために動くのだ。そんな彼らはどうしようもなくかっこいい。三浦しをんの作品に唸る。
ロバート・アトキンソン ウェストール, 宮崎 駿, Robert Westall, 金原 瑞人
ブラッカムの爆撃機―チャス・マッギルの幽霊/ぼくを作ったもの
G・ガルシア=マルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』を読んだ。作者77歳の作品である。90歳を迎えようとする、新聞社のコラムニストは、14歳の処女に恋をする。妻もめとらず、娼婦たちとの気ままな快楽に身を投じていた彼が、人生の終わりもまぢかになって味わう本当の恋の物語。荒唐無稽なストーリーも物語の天才、ガルシア=マルケスにかかると悠久の時間がながれるひと時のエピソードに過ぎない。秋の夜長にマルケスとともに至福の時間をすごすのも悪くはない。