学生の頃、インドを訪ねた事がある。バックパッカーとして行きたかったのだが(それは勿論、藤原新也『インド放浪』の読みすぎ!)、残念ながらとあるインドの州立大学に講習を受けに行くというオフィシャルなものだった。もっとも勉学にいそしむどころか、街をほっつき歩いてだけなのだけれど。当時はまだNICsなんて言葉は無くてインドはやはりアジアの大国でありながら、最貧国のひとつだった。そんななか、短期訪問者にもインドの貧困は垣間見れ、いたく心を打たれた記憶がある。例えば、デリーの下町で子供たちの遊ぶのを目で追えば、年端もいかない少女が自分のサリーを捲り上げてちらりと下着を見せると、路地に誘ったりといったような、ハンセン病と思わしき人々の蹲る暗い寺院。そしてガンジスを流れる遺体。私の貧弱な想像力はただその国を悼むことしかできなかった。

 そんな、インドの翻訳小説である。珍しくて手に取った。そして、思った。うーん、昨今、成長目覚しいインドだが、やはり貧しさは変わらないな、しかし、さすが人種、宗教の坩堝インド、愛の神がおわしますなぁ。と。

 インドの外交官、ヴィカス・スワラップ(カーストの強いインドのこと超エリートであることは間違いない)が書いた『ぼくと1ルピーの神様』は、ムンバイのスラム街に住む、ラム・ムハンマド・トーマス少年がTVのクイズ番組で10億ルピーという法外な賞金を手に入れることから始まる。12問のクイズは難問そろい。なぜ、「無学」のスラム街の少年に回答できようか?そう思う手合いは、ラムを拘束してしまう。そこから救い出す謎の女性弁護士。彼女に語られるラムの半生。それが、クイズの答えになっている。貧困と差別。インドの苦しみを生き抜くラム少年には、勇気と知恵があって、その困難を乗り越えてゆく。ヒンドゥとムスリムとキリストの3つの名を持つラム少年の成長はそのまま深い愛の物語になって、心をゆすぶります。

 寝ぼけた豊かさのなかで私たちが忘れてしまったもの。腑抜けた恋愛にうつつを抜かしているうちに失くしてしまったもの。外交官(エリート)が書いたということを差し引いてもすばらしい作品です。

 「愛、あるかな?」と問われているみたいです。ありますか愛?

ヴィカス・スワラップ, 子安 亜弥
ぼくと1ルピーの神様

藤原 新也

印度放浪

 屋久島に住む詩人、山尾三省さんの詩集『親和力』をなぞる。もうお亡くなりになったが、屋久島に住む詩人に興味を持ったのは、水に惹かれたからだ。屋久島の清冽な流れに身を浸したとき、私というものの意識が融解し、身体が拡がってまるでそれは、母体の羊水に浮ぶ心地で、不思議な『親和力』に満たされた。それは、クライミング(趣味なんです。登攀とクライミング。)で丹沢の滝に打たれたときも、屋久島ほど清冽ではないにしろ、感じるものであった。


 「属する」


私達人間は

水に属している 生きものである

土に属している 生きものである


サネンの花に

カブトムシの幼虫に

アカショウビンの啼声に

属している 生きものである

そのことを

いつから 忘れてしまったのだろうか


山尾三省 『親和力』より


そうですね、自然の水の力に感じる心、身体、それは決して遠い過去のものではないはず。汚れちまった水にもわずかながら命が宿っています。「しんわりょく」素敵な響きです。願わくばその細りゆく命に寄り添って、声に耳を傾けたいものです。屋久島の偉大なバンド「ビックストーン」を聴きながらそんなこと思いました。

山尾 三省
親和力―暮らしの中で学ぶ真実

 オペラを聴きに行きました。モーツァルトの『フィガロの結婚』。いやー、おばかな話で笑えました。クラシックというと高尚なイメージで堅苦しいと思われがちですが、そんなことはありません。モーツァルトのオペラは笑えますよ。不倫を企てる伯爵とこっけいなフィガロのやりとりが軽い音楽とともに喜劇を形作って、癒されます。クラシック好きな人からはモーツァルトのその軽薄さが嫌悪されることもあるようですが、そんなことは無い。確かにグールドの演奏で「ゴールドベルク」を聴くのも良いのですが、たまにはねゆっくりと、気楽に楽しむのもいいものです。クリストフ・エッシェンバッハが1968年に録音したピアノソナタ、ノンペダルで演奏されるそれは、繊細さとリリシズムに溢れ優しい気持ちになります。私はアナログレコードを愛聴していますが、最近、CDの廉価版もあるようです。モーツァルト生誕250年ってことでもないのだけれど、お勧めです。

エッシェンバッハ(クリストフ), モーツァルト
モーツァルト:ピアノソナタ第8番&第10番&第11番&第15番

 仕事疲れや、気疲れなんてのは、あるけれど、いやぁ、本格的読書疲れになってしまった。モードがちっとも本に入らなくなってしまった。そんな時には、映画も頭に入らなくなってしまって、もっぱら音楽を聴いたりしているが、CDラックをまさぐっていたら、『やっぱり猫が好き』のDVDが出てきて、なんとはなしに観ていた。うーん、和みます。恩田姉妹の自然なボケや「きみちゃん」の元気さに少しパワーをもらいました。机の上には未読の書籍が呼んでいる......うーん、でも今しばらくまったりしていよう。

ポニーキャニオン
やっぱり猫が好き(2)

 読書に疲れると、頭が活字を追うのが難しくなる。そんな時は、無理せず漫画などをパラパラやる。ラズウェル細木の『酒のほそ道』なんかが良い。酒好きにはたまらない。嗚呼、ほぐれる。ほぐれる。旨い酒が飲みたくなって、小布施にある枡一市村酒造の「スクウェアワン」を一献。至福の時間である。



ラズウェル細木
酒のほそ道 7 (7)
 寒くなってきて、街路の木々も今を盛りと紅葉しています。黄や朱に染まったそれらが、落葉すると景色は、モノトーンの冬になります。そんな、色彩の失せた冬景色に七竃の実は朱を幻の様に輝きます。そんな、七竃を名前に持つ、美少女と平凡な母親の相克を描いた桜庭一樹『少女七竃と七人の可愛そうな大人』を読んだ。旭川を舞台に、古風な文体でつづられた色彩あでやかな七竃の物語。凝った装丁も美しいです。
桜庭 一樹
少女七竈と七人の可愛そうな大人

  多摩川べりの「喫茶 北極」へ行った。なんのことはない、ただの河川敷なのだが、晴れている日は読書が進む。そこを、僕は「喫茶 北極」と名付けた。きっかけは、今年の2月。寒風吹きすさぶ日のことだった。小さなバスケットにランチをつめて、山岳仕様のストーブにイノダコーヒー。iPodにはお気に入りの曲を入れて冬の晴れ間の読書を楽しもうと思ったのだ。いざ、河川敷に着くと、あまりの寒風にマットは風に煽られ、さすがの山岳仕様ストーブも火がつかず、寒くて誰一人いない河原に、iPodの外付けスピーカーからくるりの曲がびゅうびゅうの風に舞う始末。読書どころではない。鼻水をたらしながら自棄になってランチを食べた。そのうちに「なんでこんなこんな事してんだっけ?」と分からなくなってきたが、空は雲一つない紺碧。そのうち、おかしくなってきてこうなったら、徹底的に意地でも読書してやろうって気になって、ガチガチ震えながら過ごした。「こんな寒いと、喫茶、北極やね」と連れ合いが言ったので、それ以来、そこは僕らの間では、「喫茶 北極」と呼ばれる事となった。
 夏でも、河原で読書したくなったら、「ちょっと、喫茶 北極いってくるわ」みたいに。
寒くなってきたので、今日、本格的に「喫茶 北極」オープンしました。みかけたらお気軽に、いらして下さい。おいしいコーヒーをごちそうします。風に舞う落ち葉に書かれたマークが開店のしるしです。(対岸にある「喫茶 小力」もよろしく。小力に似て犬を連れた小太りのスカ好きおっさんの近くにオープンしています。「北極」がしまっていたらこっちにいます。)







 久しぶりに書店にいった。しかも、大型書店。普段から人ごみでは落ち着かなくなってしまうタチでもあり、目的の本を見つけるとせかせか、その場を後にしようとした。そのとき、フト新刊本の平積から、呼びかけるものがある。「なんやろ?」とおもって行き過ぎようとするが、なにか分からんが店内の蛍光灯をあびてなおきらきら光る一冊があった。足を止め「どれどれ」と近寄ってみると、ポップの影にそれはあった。手にとって見るといまどき珍しい函入りの装丁。そこには朱で『真鶴』とあった。(それだけ、後は著者名のみ。)それが、川上弘美『真鶴』との出会いだった。

 いやーこれは!久々、いい本に出逢いました。川上弘美は『蛇を踏む』や『溺レる』などは一応、読むには読んだが、正直、あまり印象に残った作家ではなかった。だが、これは!

 小説を書く、または読むことにあたって、「場所」が契機にあることがあると思うが、まさに、これは「場所」に惹かれ「場所」について書いた一篇だ。それは「真鶴=まなづる」という場所について。しかも、その「場所」はただの舞台装置ではなく人の記憶さらには、異界への入り口にもなっているような。物理的な場所を入り口に意識の深層へ。そんな、小説だ。中沢新一が「アースダイバー」の中で言っているように、ある「場所」は「特有の雰囲気をかもし出している、つまりそういう場所からは、死の香りがただよってくるのだ。」。古来、アミニズムとしてとして、そうしたものを信仰していた、私たちの深い部分の無意識がそういった、黄泉の国への入り口といったものに感応し、なんとなくシンクロしてしまう場所がある。それが、著者にとっての「真鶴」だ。

 主人公、「柳本京(けい)」は12年前に失踪した夫「礼」に引かれるように、偶然「真鶴」の地に降り立つ。いや、夫の礼に引かれたわけではなく、京の周りにしばしば現れる「ついてくるのも」に引かれた。それは薄かったり、濃かったり、男だったり、女だったり、一人だったり、大勢だったりするのだが、買い物のデパートや帰り道にもしばしば現れた。その「ついてくるもの」はやがて女の姿になり、「真鶴」に京を誘った。京の娘、中三の「百(もも)」にもその感度を合わせてゆく。百を誘って一緒に「真鶴」のホテルに来た、京に百が言う「なにか、通った。」と「なにが」と問い返す京に「飛行機かな」と。ただ窓の外には茫々と広がる真鶴の海と空しかないのに。

 やがて、その「ついてくるもの」の女は祭りの夜に不思議な話をする。半島に広がる原生林に殺された女の子が吊るされたと。「そうよ、海面。うつってたの。あの子。髪がたってた。(中略)両の足を、藤の蔓でしばられてた。漁師がみあげると、はりだした松の枝に、さかさに吊られていた。」と。こうして異界に踏み入れてゆく京は、そういった不思議なものに惹かれながらも、自らの過去や、今(青茲という恋人のこと、百のこと)を考えてゆく。「過去の中に姿を消すことのできるものは、今あるものばかりだ。今ないものは、、過去の中に消すことはできない。どこに消すこともできない。不在なのに、いつまでたってもなくならない。」と強く礼に惹かれる思いは、「真鶴」に惹かれる心とシンクロして、「あるもの」と「ないもの」の間を「たゆたって」ゆく。その、はかなさのなかでゆれる京。ラストの至福感。ひらがなを多用したリズムある文体。素敵な装丁。お勧めです。この本に「よばれた」ことに感謝!

川上 弘美
真鶴


 「ものごとが、みえすぎる、感じすぎるというのは、これは、まあ、不幸、と言えば不幸であるかも知れんな。人間はある意味じゃ鈍感だからやっていけるんだろう。だからこそ社会というものが成り立っていけるんだろうと思う。みえすぎる目で眺めてみると、この社会なんてのは欺瞞のカタマリなのかも知れない。不可解でやりきれないものの巨大なカタマリなのかも知れないな。それを感じてしまう心は、不幸だろうな」

 「・・・・・・まぁ、アレじゃねえか。人間はよ、多かれ少なかれ、カナシイ思いをする為に生きているんじゃねえのか」

 「・・・・・・人間はよ、カナシクなるほどに、色んな事に気がつくものさ。カナシクなりゃなるほど、色んなものがみえて来もする。日が暮れるにつれて星の光にふと気づく様なのかも知れないな。-星は、いつだって空にあるんだけどよ、明るいうちは見たくたって、見えやしないのさ。-まぁ、星に興味の無い奴は、ずっと陽の当たるところに居ればいいがよ、だけど人間は、もしかしたら、星を目にするために生まれてきたんじゃないのかな。」

 「そう。・・・・・・あのひとは、環境に適した生き物じゃ無いのよ。この人間社会で上手くやっていけるような体質じゃ無いの。陸の魚。放っとけば。死ぬわ。」


不器用で、哀しみに打ちひしがれた人は、より人の哀しみに寄り添うことに巧い。辻内智貴の主人公「セイジ」が両親を目の前で惨殺された少女の前でとった行動は?「竜二」が病床の母からもらった最後の言葉とは?愚直でストレートな飾り気のない文章は息苦しいまでに胸を打ちます。久しぶりに泣きました。辻内智貴の渾身のストレート。ダウン必至です。

辻内 智貴
セイジ

 日経を読んでいて思った。それは24日の夕刊の『プロムナード』という連載なのだが、毎回、日替わりで著名な文化人がエッセイを書いているもので、村上龍やいしいしんじも連載しているので、わりと愛読している欄だ。当の夕刊には坂東眞砂子が「リアルになること」と題して書いていた。内容は、タヒチに移住した彼女が最初は「虫1匹、殺せない人」であったのが、蟻が行列して台所を這い回り、ムカデにさされて痛い思いをしそんな有様に考えを改め、「生きとし生けるものの命は大切である。しかし、他の生き物が、自分の生活圏にまで入り込んでできて、脅かすようになったら、自分の命と生活を優先するしかない。」と思い、今では躊躇なくそれらをばしばし、叩き潰せるようになった云々。というものだが、それを読んでいて私は、数週間前の朝の出来事を思い出した。


 私は、朝の静かな時間が集中できるので、誰よりも早く出社するのだが、その日も誰もいない事務所でしょこしょこと仕事をしていた。程なく、事務所の扉越しに総務のS嬢が出社するのが見えた。事務のガラス扉を開けてまさに「おはようございます」と言いかけたS嬢は突然「ぎゃぁぁぁぁー」と叫び声をあげた。普段だったら無視する私だが、いかんせん事務所には私、独りしかいないので、やむなくパソコンの前から立ち上がり、「どうかしましたか?」と彼女のそばによって聞いた。彼女は頭を両手で覆いながら「いま、ドアを開けたらヤスデが頭の上に落ちてきたんですぅ」とわなないた。ドアを見ると一匹のヤスデがあわててキャビネットの下に逃げようとしていたところだった。


 彼女の虫嫌いはちょっと度が過ぎているようで、この夏は事務所や社屋の周りで、殺虫スプレー片手に忙しく立ち回る姿がしばし社員の話題にはなっていた。そんな、彼女を苦々しく思っていた私は、一度「もう、その辺で勘弁してあげたら?」と話しかけたこともある。「いやぁ!勘弁ならない!」っといってしゅーしゅーとスプレーを撒きちらす彼女。その姿は鬼気迫るものがあった。


 手を頭に奇妙な格好でヤスデをさがしてきょろきょろしている彼女に私は言った。「あんまり殺しすぎて罰があたったのかもよ」と。そう言い放つと自分の机に戻った。何か優しい言葉でもかけてもらえると思ったのか一瞬彼女は口を開けて呆然としていたが、次には開けた口をつぼめ「なっ、なっ、なんて失礼な!」というとぷりぷりしながらロッカーへ向かった。ロッカーのドアが閉まるとき「その認識は間違ってますっ。」と私に向かっていったのか、独り言かは判然としない言葉をぼそっと残して。


 私は、自分の言葉に苦々した。一言、「大丈夫?」とか「いやぁ朝からとんだ災難だねぇ」とか言うつもりだった。それが口をついて出てきたのは先の言葉。別段、会社の女の子から嫌われるのはかまわない。そんなことより「殺す」という言葉と「罰」という言葉との朝の光には似つかわしくない鋭利な言葉を使って自分の考えを言ってしまったことに苦々した。それは、私の真の思いだったからだ。とりつくろい、表層をすいすいと流れる日常で、黒々とした私が裂けた。そのことに驚き、今日一日そのことを考えながら仕事をするのは不可能のように思われた。


 車谷長吉に『蟲の息』という短編がある。小さな蟲の生き死にが人の運命の行く末までも変えてゆく、そんな繊細な心の持ち様。無論それは、日常生活では深く、暗く隠蔽されるべきものなのだ。




車谷 長吉

漂流物