あまりに哀しい 墓参り | ぶらり旅S

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戦後すぐの生まれ。灌漑、水資源、農業、発展途上国への技術協力などを中心に、大学で研究、教育をしてきて、現役を退きました。研究の周辺で、これまで経験したこと、考えたことを、今考えていることも含めて書いてみたい。

昨日、久しぶりに東京に出たので、品川区にある父母のお墓参りをしました。このお寺(R-Ji)の先々代の住職が、父の生前懇意だったので、亡くなったとき、そこに新しくお墓を作らせてもらったのです。よいお坊さんでした。ところが、だいぶ前に、その住職がなくなり、その息子さんもなくなった後、ずいぶん変わってしまいました。

 

昨日も、供える花を用意してお寺に行き、お線香を買おうとすると、外にお線香と火付け器がおいてありました。

 

お線香一束100円です。壁にある投入口に入れてください。」

 

という紙がぶら下がっています。

 

(お寺で売っていたお線香とその点火器)

 

ところが、その横の貼り紙には、

 

「両替 釣銭 お断りいたします。

御線香持参の方は寺の点火器を使用する事はできません。 禁止です。」

 

と書いてあります。下にはご丁寧に「防犯カメラ設置」とあります。

 

(お線香についての貼り紙)

 

何ということでしょうか。目を疑いました。線香は自分で持ってくるなと言わんばかりです。自宅から持ってきたお線香に、なぜ寺の点火器を使用してはいけないのでしょう。どれだけの電気代がかかるというのでしょう。せめて、釣銭くらい出したらどうですか。郊外には、人を信用して、無人の野菜販売所すらありますよ。この防犯カメラで、お寺は何を監視しようというのでしょうか。

 

小銭を持ち合わせていなかった私が、どうしたものかと思案していると、寺のおかみさん(と表現していいのか?)が、ちょうど外から戻ってきました。ところが、そのおかみさんは、私に目を向けることなく、「こんにちわ」も、ましてや、「お参り、ご苦労さまです」もなく、私とすれ違いながら、ドアを開け、寺にはいってドアをピシャリと閉めました。結局、お線香はなくても心は通じる、と自分に言い聞かせることにしました。

 

これまでも、お墓参りに行って、子供のおしっこでトイレを借りたいと言っても、あからさまに嫌な顔をされ、頭を下げ下げ使わせてもらったりなど、不快な思いを何度もしてきたので、もうあきらめてはいるのですが、なんと悲しいことか。(親戚が法事で本堂に集まり、お布施を差し上げた時は、もちろんトイレは使わせているのです。)

 

これが人々の苦しみを救うはずの仏教、寺の現状なのかと、情けなくなりました。私の長兄は、もうこの寺の檀家から抜けようと考えているようです。

 

世の中にはしっかりとしたお坊さんがおられることも知っています。しかし、このお寺のような実情を、把握してかせずにか、放置しているのは、この宗派の本山(というのか?)の怠慢なのではないか。これでは、仏教が現代社会の中でますます訴える力のない存在になってしまいます。大変残念なことです。

 

ちなみに、このお寺は、曹洞宗のお寺です。開祖様(道元)はこの現状を喜んでおられるでしょうか。私は、不快なことは、ブログで書きたくないのです。でも、お寺が、人々の心の救いではなく、苦痛を与える姿を許し、認めることはできません。こんなお寺は、要りません。潰れてもらいたいとすら思います。生きる希望がなかなか持てない殺伐とした時代に、お寺がやるべきことは何でしょう。

 

仏教しっかりしろ、仏教がんばれ。

 

(私のブログでしばしば紹介するエジプトでは、集落ごとにモスクがあります。仕事などで地方を移動している人は、どのモスクでも寄ってお祈りをします。私達、イスラム教徒でない人にも、そこのトイレを快く使わせてくれます。必ずしも清潔ではないが、それは問題ではありません。心です。)

 

追記;上の文章を書いた後に知ったことですが、私の長兄の妻が昨年亡くなって、戒名をお願いしたところ、500万円を請求されたというのです。このお寺の住職に、庶民にとっての500万円がどれほどのものなのか、全く分かっていないといわざるを得ません。兄は、それでこの寺と縁を切ることを決断したということです。