情動的共感の欠如 | ALS記

ALS記

2023年2月13日に診断されて、現在進行中。とりあえず仕事は続けています。進行がとても遅い症例のようで、その状況を記録して発信していこうと考えています。

 今にして振り返ると、私に情動的共感が備わっていないから人格完成までに苦労したように思う。

 

 どうやら社会には、他者の表情、集団の持つ雰囲気という曖昧な信号があるらしい。物心付いたころから繰り返し「何故察しないのか」「変な発想をするな」と叱られていたのはここに起因しているのではないか。「ほどほど」とか「いい感じの塩梅」という奇妙な感覚を得られるのは、雰囲気を理解している人間のみだ。

 

 叱られる際に「ちょっと考えれば判るだろう」と周囲からずっと言われていることも、私の勘違いを招いていた。言動のフィードバックを繰り返すことで統計的に閾値が得られ、それが共感構築になる。とはいえ、子供の頃の活動領域は狭く周囲が言うような精緻な共感を象れるとは思えなかった。「よく考えれば」という指摘から推測すると、帰納的統計での構築ではなく、演繹的により深く他者・集団の意図を把握せよということなのかとも思ったが、帰納によらず深化すること自体が未だに理解できない。

 

 数年前に「アレキシサイミア」という心因状態を知って、ようやく腑に落ちた。私には情動的共感を得る機能が欠けている(他者の状況を把握する認知的共感の方は問題はなさそう)。

 

 情動的共感が機能しないと、集団行動は著しく阻害される。このため、その時の状況や周囲の言動、過去事例から「このあと何が起きるか・どういう反応をするのが望ましいか」を推測して行動しなければならない。このため、過去データが少ない状況では対応が難しい。これが恐らく、保育園の入園時に感じた恐怖の正体だろう。

 

 その後フィードバックして事例数を稼いでいったが、小学校高学年から中学校半ばまでは本当に周囲から非難されていた記憶がある。「人の気持が判らないのか」「本気で言っているなら絶交だ」「ふざけている場合か」とかよく言われたものだ。恐らく、私が意図して無神経な行動を取ったと受け取ったのだろう。

 

 相互に「アレキシサイミア」の概念があれば防げた騒動なのかもしれないが、全体主義的な集団では多様性を排除するのが原則だから、どっちにしろ駄目だった可能性の方が高いと思う。

 

 たとえばクラス対抗のスポーツ大会とか合唱コンクールとかがあっても、それに熱中して「クラス一丸で」とか言い出したり、勝敗後に感情を爆発させる行動の意味が判らなかった。かなり怖いので距離を空けていると総攻撃に遭ったものだ。

 

 高校になって、似た者同士(興味を惹いたものだけに集中する人種)の集団に合流できて、ようやくある程度の適応ができたように思う。そして、それ以降は個人主義的な場にこだわって居場所を確保してきた。

 

 とはいえ、対人関係で揉めることは頻々と起きるので、その都度対応方法のキャリブレーションを行なってきた。キャリブレーション過程では限界値・閾値を探るため、極端なことを言ったり、あえて反論して反応を探ったりということをしなければならない。このため、変わり者とか天邪鬼とか言われることが未だにある。それでもキャリブレーションしていかないと、不本意に集団から追放される危険が大きいのだから、これはもうやむを得ない悪評と割り切るよりない。

 

 このような前提があるため、集団(実感でいうと5人以上)が一斉に会話したり、未経験の事案を交渉する際、失言する率が上がる。その会議では自分でも把握できなかった事柄を、夜間あれこれ考えて解決案を導き出すことも多い。

 

 そこで改めて思うのが、1次元的な書籍が物凄く好きな一方で2次元的な映像には全く興味が持てないのは、2次元的作品を受け取るためには先天的な情動的共感機能が求められているからかもしれない。小説で言うところの行間情報が多すぎて、粗筋程度にしか受け取れない。粗筋ならせいぜい1000文字程度で済むものを、なぜ長時間ずっと眺めなければならないのかと思ってしまう。その点、文字の持つレトリックは範囲が狭いし、業務目的ならむしろ語義を相互に定めるところから始めていくので心地よい。

 

 と、あれこれ書いていて気づいたのだが、ALSが進行した際に見られることがあるという「前頭側頭型認知障害」が、私の場合はより先鋭化して出現する可能性が高い。アレキシサイミアと近い領域には「サイコパス」がある。良心が欠如し自己都合だけで行動するもので、その根源には情動的共感の欠如がある。

 

 もしこの認知障害が発症したら、自己流で構築してきた似非共感は早々に消失して、周囲に損害を与える未来しか見られない。この点は強く留意し、あらかじめ周囲に警告を発していかなければならない。