ALSは誰に対して『残酷な病気』なのか | ALS記

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2023年2月13日に診断されて、現在進行中。とりあえず仕事は続けています。進行がとても遅い症例のようで、その状況を記録して発信していこうと考えています。

 残酷な病気とされるALS。勿論私(患者本人)はつらいけど、私の家族はもっとつらくなるんじゃないかと案じている。

 

 以前読んだ記述で、延命措置を拒否して死亡してその理由が「家族に負担をかけたくない」だった場合に、それを知った遺族がかえって気に病むというのがあった。「自分たちに遠慮して死んだ」≒「自分たちのせいで死んだ」という流れ。

 

 負担をかけたくないという言動が、対象者にとってはかえって負担になるという矛盾といえるだろう。

 

 一方で延命を試みたとしても、呼吸機器の故障・停電・気道閉塞などの突発的要因で死の危険があるらしい。これらの要因で死んだとして、それもまた「自らの不用意・不注意が原因」と、遺族の心的負荷になるだろう。

 

 親しい人の死はどのような状況であれ精神に動揺をもたらすもので「自分に何かできなかっただろうか」という自問に陥りやすい。ただ、他の病気では延命手段自体がなかったり、進行に治療が追いつかなかったり、意識・認知が失われたりするケースが多いかと思う。それがALSでは様相が異なってくるのは何故だろうか。

 

 俯瞰して考えてみよう。

 

 文明と医療の進展によって生存期間を延ばすことは可能になった。野生動物であれば、運動機能の欠損は死を意味する。それが、医療技術・生活家電・移動機関・情報端末の進展によって寿命が延びた。ここまでは歪みはないように思える。

 

 だがその先、胃瘻や人工呼吸器によっての延命は次元が異なるのではないだろうか。飲食・呼吸が一時的にできなくなった人に行なうのであれば特に破綻はない。状態が不安定で周囲の注意が必要であろうと、回復までの辛抱で、希望も意義も見いだせるだろう。

 

 けれども、ALSで回復することはない。あまつさえ情報交信手段すら失われていく。

 

 こうなると介護する私の家族には、「死なせないようにする」ことのみが目的になってしまうのではないか。病気から回復したら旅行に行こうとか、治るまでの辛抱だとか、また元気な様子を見たいとか、そういう前向きな要素がないままに、体力・時間・精神力をごっそり削っていく介護を続けていかなければならない。

 

 私にはこれが一番「残酷」に思える。技術的に可能なことが心理的な許容上限を上回り、妻や子供たちへの苛烈な状況を作り出すのではないかと。

 

 今の結論としては、延命は望まないがその理由は家族への負担を心配してのことではなく、自らの人生観によるものとするのがよさそうかな。もうちょっと説得力は必要な気もするが……。