老子の道徳経にある一節の「功遂身退天之道」を中学生の頃に目にして、なぜか印象に残っていた。
当時の私は「功を成し遂げたのに、何で引退するんだろう。出世して名を誇ればいいのに」という疑問を抱いた。大人の世界の複雑な事情があるのかなあと。その後、高校から大学で漢文を習っていくと、それは中国独特の保身術なのだろうと受け止め方が変わっていった。
しかしこの見方が再び変わることとなる。ALSになり延命措置の判断が目前に迫ってきた昨今、ようやく腑に落ちたというか、言葉が身体の中に入ってきた感覚がある。
それは恐らく、平氏の滅亡を眼前にした知盛が「見るべきほどのものは見つ」と言った心境に近いのだろう。自らの天命を悟り、その終息を受け入れるという静かな諦観。
治承・寿永の乱で最後まで平氏を導き、足掻いた知盛に、私なんぞが共感するのも烏滸がましいが、遂げた功はほとんどなくても、せめて心情だけは知盛のごとくありたいと願う。
「遂げた功」というより、むしろ周囲の足を引っ張ったことばかりが悔やまれる。
僅かな功であってもそれ以上がないなら「遂げた」と思うよりないだろう。ALSが進行して身動きも取れず意思疎通もできなくなるのであれば、その先で功が遂げられることはない。まさしく馬齢といえる。
自らの役割を終えたなら、身を退く。存在を空け、自らへ宛てられた資源を後生へ渡していく。