間違ってるものに正当性を保たせようとしたら膨大な理屈が必要となり、難解になります。
逆に言えば、正しいものは、実にシンプルで、古今東西、地球人である限り、ひたすらに共通している
…と思ってしまいました。
![続!稽古人、徒然日誌-0511.gif](https://stat.ameba.jp/user_images/20120314/11/bunotaiiku-kogakusha/7b/cf/g/o0020002011850609641.gif?caw=800)
むろん、時代や国が違えば言語や生活慣習などの表現方法も違い、私たちが理解するのに困難な場合もありますが、動きでコミュニケーションがとれることなら、そこに現れるのは、高度な動きほど、ごくシンプルかもしれません。どれだけ洗練された感覚を持つか、で個々の違いは出るでしょうが![続!稽古人、徒然日誌-1151.gif](https://stat.ameba.jp/user_images/20120314/11/bunotaiiku-kogakusha/9b/8f/g/o0020002011850609643.gif?caw=800)
![続!稽古人、徒然日誌-1151.gif](https://stat.ameba.jp/user_images/20120314/11/bunotaiiku-kogakusha/9b/8f/g/o0020002011850609643.gif?caw=800)
個々の違い、といっても体格とか年齢とか、扱う道具(武器に限らず乗り物や筆、包丁など道具を使う日常動作も含めて)によって応用変化はしても、その核は同じであるという意味です。
私ごときが言うのも何ですが、格闘技者は己の実力を試合で測ります。ただし、ルールが整備され、競技として確立されるほど勝つためのテクニックが磨かれ、武術的な間合いなどが失われます。
武術の場合は演武やパフォーマンスでその見事な身体操作を見せるのですが、これは間違うと質の悪いマジックショウになりかねません。
どちらも一長一短です。
要は、第三者から称賛を受けたいと思えば、オーバーアクションをしなければならくなる、ということです。
勝利を目指す事から生き残る事にシフトして、さらに今は“自然”に還る事の意識にたどり着けたような気がします。
それが動作(業)として現せるようになるには、凡人の私には生涯かけても果たして![続!稽古人、徒然日誌-0083.gif](https://stat.ameba.jp/user_images/20120314/11/bunotaiiku-kogakusha/e7/8a/g/o0020002011850609648.gif?caw=800)
![続!稽古人、徒然日誌-0083.gif](https://stat.ameba.jp/user_images/20120314/11/bunotaiiku-kogakusha/e7/8a/g/o0020002011850609648.gif?caw=800)
ですが、それを気付かせてくれた3人の師と、システマとの出会いに感謝です。
![続!稽古人、徒然日誌-0083.gif](https://stat.ameba.jp/user_images/20120314/11/bunotaiiku-kogakusha/e7/8a/g/o0020002011850609648.gif?caw=800)
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