今回の探検の始まりは、実は何年も前に遡る。
そしてそれは1つじゃなくて、いくつもの探検が今回のプロローグになっていた。知らないうちに。
そのなかで最も関連性が高いのは2014年のこの探検だろう。
終戦により同山は閉山を余儀なくされたが後年になり耐火煉瓦のハロイサイト鉱山として昭和中期まで再稼働した。
この焼成炉はその当時の遺構である。
さて、戦局厳しくなった頃の話に戻るが、戦闘機の増産のためには、蝋石のさらなる速達輸送が求められた。
当時の輸送手段は草軽電鉄の貨物輸送だったが
そこで、索道の終点・嬬恋駅から昭和20年初頭に開通する国鉄長野原線の終点長野原までを結ぶ専用軌道の敷設が、国策として進められた。
これにより群馬鉄山で産出される鉄鉱石は日本鋼管太子線にて、上信鉱山の蝋石は上信鉱山専用線にて、それぞれ長野原に集められて同時に速達輸送が可能になるのだ。
(写真は1979年国鉄吾妻線小野上駅でのEF12牽引ホキカモレ)
しかし後者のほうは完成することなく終戦を迎え、閉山に伴ってそのまま山中に放置されることになった。
今回はこの上信鉱山専用線の未成線の遺構を探索する。
いままでにでてきたキーワードを説明しだすと本当にきりがないので、ディープにもライトにも読めるように関連記事をリンクしときます!
草軽電鉄全線(バニーとの詳細な探索記2009・目次)
草軽・嬬恋駅
国鉄長野原線・太子線
群馬鉄山
そして今回の未成線の起点・嬬恋駅と終点・長野原駅(現在の長野原草津口駅)、探検した3遺構及び上信鉱山のマップを先に出しておきます!
(左上のログS-Gはコマタ滝のもので関係ないです、あとマップ中央近くの滝マークは赤川出合滝であって瀬戸の滝のものではないです)
さあこっからが本題です!
草津街道R145バイパス坪井大橋の真下に来ました!
この右側のこれが長野原から嬬恋を結ぶ予定だった上信鉱業専用線の軌道敷跡ではないかということで観に来ました!
最大20m以上はあろうかという石積みの橋脚群が現れました!
朝日の逆光に浮かび上がる橋脚
嬬恋側の斜面、遅沢川右岸を登ってみよう
さらに斜面の上を見ると
これでひととおりかな、ドウガをどうぞ!
いやそれにしても驚きの
素晴らしい遺構でした!
これまでのものが下のマップの遺構1で、嬬恋に向かい
未成線はR144と同じように吾妻川左岸を走行していたようだ。よく探せば段丘状の路盤跡と思しきものや小橋梁跡があるのだが、未成線ということで割愛し遺構2に移る。
次の遺構は、オツムギ沢出合付近に残る橋脚である。5mほどの橋脚が2本、周囲の風景に溶け込むようにして立っていた!
遺構2のオツムギ沢橋脚から、次の遺構3までの間に未成線は吾妻川を渡っている。それは瀬戸の滝より数100m長野原側のあたりで、実際左岸にのみ橋台の痕跡が伺えるのだが、フォトジェニックでないので割愛した。
これで今回の探検は終了です!
晴らしいアドベンチャーでした!
いままでのタンケンがすべてセンでつながったタンケンでした!かんむりょうです!
最後に、昭和12年の草軽電気鉄道嬬恋駅の地図と今回のトンネル▼の位置関係を。
未成線は嬬恋駅で草軽に接続する予定だったそうですが、
おそらく索道からの蝋石の積み込みは当時吾妻川対岸の隣駅である上州三原駅(じゃうしうみはら)で行われていたと思われます。
古地図では東三原駅に北西の吾妻硫黄鉱山からの索道があるのが見て取れます。
東三原駅は後年客扱いを廃止したという記録があり、単なるスイッチバックのための信号施設と解釈していたが、上州三原〜東三原が一連のヤードとなっていて、東三原で索道から貨車への積み込みを行って列車への増結を上州三原で行っていた可能性があることに気づいた。
とすると上州三原が当初新嬬恋と名乗っていたことから、上信鉱業専用線の終着駅は嬬恋駅ではなく新嬬恋駅すなわち上州三原駅を指していた可能性もあったかもしれないと推測しています。
もしそのとおりだったとしたら、この未成線が竣工できていたら、上信鉱業の貨物列車は嬬恋駅から上州三原駅まで草軽に乗り入れ運転することになっただろうと思います。