小説「かけたるものをこそ」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

「嫌がらせなんだよね。」

と私は夫に話す。夫はタブレットで経済ニュースを読みながら私の話を聞いている。

夫は人間の目が嫌いだ。

私と視線を合わせて話すことは、まず、無い。必ず何かを読んでいるか、ゲームをいじっているかテレビを見ている。

夫は人間を見るのが嫌いだ。

 

「利用者に対して嫌がらせをする人が居るのよ、苦情が来てるのよ。多分、嫌がらせだと思うんだけど。」

夫は横を向いたまま、うん、と答える。横を向いていても話を聴いていることは分かっているので、私は話続ける。

「全然不備の無い原稿に、ケチ付けて突っぱねて、それで直すところがないもんだからそのまま再提出すると、すんなり受け取るの。」

「その原稿には本当に不備はないの?」

私は知能や精神に障害のある人たちのための、NPO事務所で働いている。私の事務所では、自治体や各種団体から議事録や公演の音声データを受注して、それを原稿に起こす作業をしている。

 

通ってくる利用者さんたちは、体調を崩しやすく、また作業能力にどうしようもない限界があったりするから、

NPOとは言っても収益らしい収益は上がらない。それぞれが月に3000円稼ぐことが出来ればいい方だ。

その、彼らのひと月の間にやりきれなかった作業を補うために、私を含め5人のスタッフが働いている。収入源は市からの補助金だ。それと、自力で稼いだ分がいくばくか。

 

夫の言葉に私は頷く、タブレットに集中したままでも話を聞いているのは分かっているので、私は話している。

「だって、何もいじらなくても再提出したらすんなり受けてくれるっていうんだもん、みんなが文句言ってくるのよ。」

「みんなってどんな人?」

「比較的作業の早い人。だから不備が少ないのよ、もともと能力が高い人たちなんだから。」

「もっと作業が遅い人たちは、嫌がらせされないの?」

「そこなのよ。」

私は話す。

 

「要するに、偏見が強い人だから困っているのね。障害の度合いが低い人たちの方に余計偏見があるのよ。」

「ふうん。どういうこと。」

夫が聞き返す。

「だからね。

“お前たちは障害者なんだから平身低頭して生きていくのが相応だろう”

って、いやだな、こんなこと人の事でも口にするの。そんな風に考えている人なのよ。」

「君はそういう風に考えないの?」

と夫は聞き返す。私は、考えていないつもりだ、と答える。答えるんだけど、実は、本当にそんな偏見が自分の中には存在しないかどうか。

自信があるのか、と問い詰められたら、口をつぐみそうな自分が目の前に所在なく立っている。

 

「そんな人がよくNPOなんかの職員やっているね。」

と夫が言う。指先でタブレットのページを捲って行きながら。

「だから、わざと入ってきているのよ。こっちだって働き手は少ないからね。仕事してくれるって言ってくれる人ならつい受け入れてしまうんだけど、時々そういう偏見目的で入ってくる人が居るから、正直困っている。

辞めてもらう訳にはいかないし。」

職員の人員と作業量は常にぎりぎりなのだ。私だって月に恐ろしい収入にしかなっていない。でもこの職場から抜け出せない。私が抜けた後の他の人への迷惑を考えると。

 

「逆にうらやましいのかもしれないぞ。」

急に夫が言った。

「何?」

「欠けたるものをこそ。」

「だから何?」

「無いもの、と言うのは、特徴だからな。アイデンティティの中核だよ。案外、五体満足で能力も高くて可能性だって持ってるやつの方が、自分が何をしたらいいのか分からなくて燻っている。俺もそうだ。

でも初めから無いものがあると、それを補えばいいという人生の目的が生じるからな。とにかく、何かはして生きていける。

何かはしてな。

 

その、おっさんか?」

と聞くので、

「うん、気持ちの悪い中年。」

「その言い方は失礼だ。」

とたしなめられた。だから私は、はい、と答える。

「うらやましんだろ。やることがある人間が。そういうもんだよ。業務に支障がない程度の嫌がらせだったら、税金みたいなもんだと思ってひっかぶってやれよ。」

「税金ねえ。」

「生存税だ。これは払っている方が生きがいを感じられるものだ。そしてそれは、障害のある人にしか課税されない。」

「欠けたるものをこそ?」

「そう。欠損は生きる目的だから。」

「あなたにはそれが無いの?」

と私は問うた。

「俺はどういう訳か障害者ではないが、幸いにして生きる目的が無いわけじゃない。」

そういって、夫はタブレットから手を放して私のこめかみあたりに、軽く、触れた。