小説「蜘蛛」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

おまえはあの時見逃した蜘蛛か。随分と肥太ったな。私に禍を為しに来たのか。

朝見た蜘蛛は殺さないと言う習慣がある。その代わり夕方に見た蜘蛛は殺さなくてはならないと言うきまりもある。

私は一匹の蜘蛛を朝に見た。ちっぽけな、ろくに巣も掛けられないような惨めな蜘蛛だった。巣をかけるどころかヤモリか何かにとって食われそうだった。私はその蜘蛛を見逃した。

同じ日の夕方、私はもの干場で大きな蜘蛛を殺した。腹に黄色い縞のある割りに大振りな蜘蛛だった。私は干していた布団に巣を掛けようと這っていたそれを、布団叩きではたいて殺したのだ。

だって布団に蜘蛛が這ったら嫌なんだもの。私は日を吸って柔らかく乾いた布団を抱え、喜びに充ちていた。
なんと言うことはない。その日は私が何か良いことがあるのかもしれない。そんなぼんやりした錯覚を抱いただけだったのだ。

気がついたら我が家の玄関に蜘蛛が巣を掛けるようになった。
たった一日で驚くほど大きな巣を吐いて見せる。

私は夕方になると手近な棒で蜘蛛の巣をからげて落とす。蜘蛛はいつも周到に逃げていく。
そして翌日にはまた見事な糸を吐いて見せるのだ。そんな事が何年も続いた。

蜘蛛の巣は幸福の証しでも在るらしい。佳いことを拾ったり、悪いことを絡めとると言う信仰が在るらしい。

だが最近私は細っていく。身が、と言うわけでない。何もかもが。
体も心もち枯れていくように力が抜ける。佳いことが何も起こらない。

おまえはあの時見逃した蜘蛛か?
私に禍を為しに来たのか?

夜毎朝毎私のよきことをその巣でからげてその腹の中に納めているのか?そうしてそのように肥太ったのか?

私はぱんぱんに張った蜘蛛の腹を眩しい気持ちで見上げる。
ああその中には私に降りかかる筈だったどんな光明が仕舞われているというのだ。ああその中のどんなものが私の物になる筈だったと言うのだ。

分からない。
みんなおまえがたべてしまったのか。私に禍を為しに来たのか。

それでも私はおまえを見逃さなくては成らなかったのだ。

だって、おまえはちっぽけな朝の蜘蛛だったのだもの。