小説「豆腐を煮る」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

だから自分の分だけを作るようになった。
結婚してから皿に出したら夫に絶句されたからだった。

昔から、母親はよく豆腐を煮た。
湯豆腐ではない。

出汁としょう油をぶちこんだ中にありものの野菜や肉やカニかまなんか、タンパク質をとにかく無差別に入れて、
仕上げに豆腐を入れて煮たたせたものをよく作っていたのだ。

と言うか、家に居るときはそれしか作らなかった。家事の才能を親の腹袋にわすれてきたような人なのであった。

 

家に居ない時は私と兄とか父とかと、何か適当に作ってしのいでいた。家に居ない時の方が多かった。その分稼いできてくれていたんだけど。しかしこと食事に困ったことは事実である。

 

所でくだんの豆腐料理なのだが、育った味というのは恐ろしいもので、私は今でも時々食べたくなって自分で作ってしまう。

 

出汁を醤油だけで味付けしてその中にざく切りのキャベツやカニカマやニンジンの薄切りを入れて、最後に豆腐を入れてかき混ぜながら煮立たせる。

残飯にしか見えないものが出来上がる。

 

食卓に出したとき夫に絶句されたので、私は、ああ、私は酷いものを食べながら大人になったのだな、と思ったのだった。

 

他の料理は本を見たりしながらおいおい覚えていった。チキンソテーとか肉じゃがとか筑前煮とかハンバーグとか、そういったあたりさわりの無いものだ。

まあまあ作ることが出来た。夫にしても食事には特に文句は無いようである。私は親の腹袋の中に家事の才能を置いてきたわけではないようだ。

 

私は一般ふつうの人間の食べ物を作ることが出来る。しかし親しんだ味というのは悲しいもので、私は豆腐が特売になっているとつい買いこんで、野菜と煮込んだくちゃくちゃなものを作ってしまう。

 

はっきり言って、うまいものではない。

もっとうまいものを私は上手に作ることが出来るのに。どうしてかこんなものを作ってしまうのだ。

こんなものこんなものこんなもの。

こんなものこんなもので十分だ、適当で、不細工で、栄養だって大してないような代物だ。でもどうしてか作ってしまう。親しんだ味とは情けないものだなと思ってしまう。

 

言ってしまえば、この豆腐を醜く煮込んだ一なべは私のごちそうなのである。魂のごちそうと言っても過言ではない。食べると私の魂が小躍りして喜ぶのだ。だから私は作ってしまう。自分の魂を喜ばせるためについつい作ってしまう。

 

決して旨いものではないのに。死ぬまで作り続けるだろうなと私は思う。誰にでもあるものだろうか、こんな、食べたくないのに食べたら泣きそうになるほどうれしいという、

ごはんが。