小説「smell」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

記憶に染み付いている臭いと言うものはあるもので、
父に関していうとそれはタバコのヤニと烟の染み込んだ本棚と酒呑み特有のすえた悪臭である。
しかし間違っても懐かしい父の匂いで、私は飲み屋の隣のカウンターにハゲ散らかしたべろべろのおっさんが座ったりすると、思わず抱き締めたくなってしまったりするのだ。

同じく匂いに関して言えば、
全く不思議な事なんだけど、
息子がふと近くを通るときに間違いなく父と同じ香りが匂う事がある。

十代の少年から老人の体臭が涌いてくる筈がない。そんな筈なんてないのに、確かに息子から父と同じ香りがふうわりしているのだ。私は泣きたくなる。
確かに同じものをもって彼はこの世に生まれて来たのだな、と思ってしまうからだ。

ところで反じてみると、
母親に関してはこれと言って思い出す臭いが無い。強いて言えば臭かった、と言う事だろうか。

農業をしているひとだったからいつでも泥まみれだったし、で、あると言うのに風呂に入るのが嫌いな人だった。
私は母親が指先を茶色くしたままみそ汁の豆腐なんかを切るのがいやでいやで仕方なかった。

私の自己嫌悪は間違いなく母親によってその種を蒔かれている。
あんまりな程繁殖しないように蓋をしてくれていた父が死んでからそれは押さえきれないものとなった。
もざらもざらになってしまった私の自己嫌悪はもう手がつけられなくなって、母親の死んだ今となってははっきり言ってこの身一つに余る。

だからやたら臭いにおいがしてくると私はそれが私の腹空から漏れ出ているんだろうなと堪らない気持ちになる。

臭いが思い出させる記憶と言うのは確かにあって、私についてはそれは
とても好きだったひとと
物凄く嫌いだったひとに関する情報を、どっにしてもいやと言う程引摺り出す。