「ものすごく難しい概念なのにとてもカジュアルに使われていますよね、」
「アイデンティティ。」
とその男は言った。
「結局どういう意味なんです。」
私が尋ねると
「自己存在証明。」
と言った。
「自己存在証明。」
「私が私であると言うことを、常に自覚していると言うことを、自分の力だけで他人に証明できる、そういう能力を持っているということです。」
「なかなかややこしいですね。」
私は言う。
「あなた、自分でそんなこと出来ますか。」
男は問うた。私は笑ってしまった。
「自信無いですね。私が私であることをわたしが私で自覚してるなんて、
私がどうやってあなたに説明できますか?」
「説明出来ませんか?」
「説明出来てもそれであなたが納得するかどうか分かりません。」
「でも説明する準備はあると言うことですね。それがアイデンティティです。」
「なるほど。」
「因みに貴方がアイデンティティを保持していたとしますね。」
「はい。」
「私がそれを叩き壊したら、貴方はこの世から消え去ります。」
「私は消えますか?」
私は出してもらったお茶をもらいながら答える。
「消えます。
貴方が貴方がであることを私が粉砕しますから、必然的に貴方がこの世に居られるはずがありません。」
「そうなんですか。」
「それが、アイデンティティです。そういう大層なものなんです。それなのに皆さん、知らずにカジュアルに使っている。」
「なるほど。」
「実はアイデンティティを持っている人はそんなに多くないのです。」
と男が言った。
「そうなんですか?」
私は訊いた。
「さっき言ったように大層な概念でしょう? 難しくなかったですか。」
「なかなか。」
私は笑った。
「だからアイデンティティを持っていない人の方が多いのです。自分で自分が自分を自覚していることを、
他人に証明出切る人なんてそうは居ないんです。」
「そうなんですね。」
「だから私は、叩き潰す事が出来ない。自己存在証明のないものを叩き壊すことなんて出来ないんです。」
男は言った。
「酷い話でしょう。」
「そうですね。」
私はお茶をすする。
「じゃあ下らない人間ほど叩き壊せないと言うことなんですね。」
私は言った。
「そう。そうなんです。
こんなに下らない人間がたくさん居るんです。私は一人だって叩き潰せない。」
「悪党にも悩みが多いんですね。」
と私は相対している悪党に話す。
「そうなんです。全くそうなんです。」
と悪党は言った。