長編お話「東尾言語」の37 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

東尾先輩がのこのこやって来たのは夏も一週間で終わりそうな頃だった。
弱り始めた日射しが意地を張るみたいに涼しい風を拒む。
私は同じように体育館のテラスで、膝を抱えて座っていた。
何だって私がこんな思いをしなくては行けないのか。
と誰かに預けたい理不尽をお腹いっぱいに詰めたまま。

「まさかこんな所にいるとはな。」
私は膝頭に顔を埋めていたので確認出来なかったけど、

こんなところ

に来るのは東尾先輩しか居ないだろうしそう思ったから私もここに居るのだし、顔を見なくても分かる。
「レアン先輩とはなかなおりしたんですか?」
私はともかく一番大切な事を尋ねた。それだけはちゃんと確かめておきたかった。
「したよ。あいつの宗教学のレポート書かされた、」
と、東尾先輩は顔を背けた気配があって小さくくしゃみが聞こえた。
「イグナティウス・ロヨラについて。」
「誰ですかそれは。」
「神学大全を書いた人。死んだあと煮て出汁を取られたんだ。」
「なんですかそれは。」
「聖遺物を欲しがる信者が多すぎて屍体だけじゃ賄いきれなくなったんだって。
て、おれは何の話しをしているんだ。」
「私に聞かないでください。」
本当に私に聞かれても分からない。

東尾先輩は突っ立ったまま何も言わなかった。
負けてはならない。
この人は私が何か言うのを待っている。

「むい。」
「なんで急に名前で呼ぶんですか。」
「だって呼びやすいじゃないか。むいの名前。」
「自分の名前好きじゃないんです。呼ばないでください。」
「なんで嫌いなの。」
「無意味だからです。」
私は膝に乗せていたおでこが暑くなったので、離した。なんだか汗をかいてる様子。

「無意味、のむいなんです。生まれたことが無意味だったら生きてるうちに意味が着くだろうと。
そんな理由でつけられました。だから嫌いです。」
「いい理由じゃないか。」
東尾先輩は言った。
「私は嫌いです。」
私は言った。

「休みの間おれは探し回ったのにまさかこんな所に居るとは思わなかった。」
「私は東尾先輩ならここしか来ないだろうと思ってずっといました。」
「酷いな。
おれだって他に行くところはある。」
「何処にですか。」
私は聞いた。
「バイトとか。」

私達は黙った。私はどうしても東尾先輩の方を見るのが嫌でずっとテラスの隙間から生えた尖った草のさきっちょを見ていた。
梶先輩ならこんなのも食べちゃうかもしれないと思ったりした。
私には時間の感覚が無かった。
お腹が空かないから今が何時か分からない。お昼を食べたのは11時だった。弓道部員は今日は練習を休んでいる。

そああ、
と裏山の木が唸った。熱の衰えた風だった。
「むい。」
と東尾先輩が言って私は、
「止めてください。」
立ち上がった。長い間畳んでいた膝の軋む音が聞こえるよう。
「止めてください。」
「何を。」
私は東尾先輩の方を向く。最後に会った時より髪が短くなっていた。ぐしゃぐしゃになった表情も元に戻っていた。
「髪切ったんですね。」
「暑いから。」
当然の事を言われたのでちょっと笑ってしまった。でも、
「止めてください。」
と私は言った。
「何を。」

「他のひとの事好きなのに私の事なんか考えないでください。」
言えた。
私はこの人に自分の事なんか考えていてほしくない、そして私はそんなことを思っていたくないのだ。
だから、言えた。
「御吉野のみかの峰に、」
と先輩は分からない事を言う。
「いや、そうだな。違うな。」
私の肩の上に東尾先輩の上半身が降りてきた。と、思った。

私の肩の上に東尾先輩の両腕の重さがあって、背中の骨の真ん中で先輩が自分の手をぐっと握っている感触があった。
そして左の耳元に生きている東尾先輩の深い呼吸が確かに聞こえた。
背中の産毛が騒ぎ出す。

「うん。」
と、言われた気がした。ちゃんと聞こえたか、自信は無いけど。

「そうします。」

そう言われた気がした。
私は東尾先輩の体が重たくなったので手を掛けてどかそうとしたのだけど、そうするより早く彼は私から離れて去っていった。
私は起きたことの自覚が間に合わなくて、東尾先輩が影みたいに消えてしまったと思った。

そうします。

と言う声だけいつまでも左の耳に残っていた。