去年着手しました 長もののお話
「モーストプリティプレゼント」(長編お話 MPP のカテゴリですよ~♫)
をひさしぶりにぱらぱらめくっておりました。
最終的な総括として、
「境界線=背骨」
という自論を“先生”に語っていただいております。あのお話は、ほぼノープランで書きだしたので、書きながらいろんなことを考えねばならず、ときに頭抱えてときに本棚をがっさんばっさんしたという楽しい思い出があります。
が、残念ながら支離滅裂な内容であることは否めません。
地方出身者にとって山とはなんなのか、
あるは日本史における山とはどんな意味を持つのか、
そして都市部住民にとってその認識はどう異なるのか、
などなど考えていった時、
「境界線」
というキーワードを逆方向から同じゴールに向かって考察してみようかと思い立ち、そして結論となったのが
「境界線=背骨」
ということでした。
この度の続き物おはなし「狂おしい背骨」は、その時のことを思い出して別の内容に作り直したものです。
自分はどうも背骨というワードに拘りがあります。
どんな拘りかというと、
「世界の中心」のメタファーあるいは同義語(意味ぜんぜんちがうではないか)たるものが
自分にとって「背骨」という単語に決着するのです。
むかーしむかし初めて作ったブログ(もうこの世のどこにもありません)
のタイトルも
「夜の背骨」
と言いました。
夜、というコインの両面の片割れの、その中心をなすもの、というイメージで付けたような、
付けなかったような。
ともかくもしりきれとんぼに終わってしまった
おはなし「狂おしい背骨」
でありましたが、5話目を書いていて思いました。
平凡な想像力があればひとはひとを殺さずに済む。きっと私が同じように人殺しを画策しても、作中の彼のようにぎりぎりで働く想像力が、その人の命を救うだろうと考えます。
人を殺してみたい
と
人を殺したい
に、文脈上の差違はない。
平凡な想像力はリアルな世界から養われるのだろうか、ファンタジーの世界で培われるのだろうか?