僕は幸せにでもなることにした16 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

出版業界の不況、というものならもう十年以上それであるのに、職場の雰囲気が急に変ったのは、それが原因だからじゃないんだよな。

 職場の印刷工場の空気が突然変った。秋が来るころ。

 空気という日本語は便利なんだか不便なんだか分からない。外国語ネイティブの人がこの場合の「空気」という言葉について、本当に理解していると僕は思わない。

 僕が今言いたいのはそういう漠然と共有されている、あるいは共有されたいと思っている、しかし誰が思っているのか分からない雑な空気のことじゃない。

 具体的な空気なのだ。印刷工場の中の空気が、具体的に突然変化した。瀬尾さんの手紙はその間も途切れることなく僕の家に届いていた。

 職場の空気が重苦しいのだ。息をしていると、肺に粘性をもった何かがべっとりこびりついたみたいになる。むかむかするっていうのか。空気っていうのはその存在を意識せずに僕を生かしてくれるのが一番のいい奴、なんだが、こと職場の空気に限って全然違う状態になってしまった。ぶよぶよして、いかにも感じが悪くなっている。

 それを察しているのは僕だけじゃなかった。工場の中の雰囲気が悪い。必然的に働いている人間のこころを駄目にした。アルバイトたちの作業にはミスが増えて、だというのに主任級もどうしてか熱心に怒ろうとしなかった。だるくて仕方ない、という思考が伝わってくる。

お前らで適当に処理しといてくれよ。

 と主任が言う。どうせコンビニに配送する分は向こうで帳尻合わせるよ。だいたいここで刷ってる雑誌なんて、消えちまっても誰も困らないだろうが。主任は体を悪くしているみたいに目のしたが黒くかすれてしまっていた。その間も瀬尾さんからの手紙は届いた。

 信頼性の低い噂がアルバイトの間でささやかれるようになった。コスト削減のためにインクとかオイルとかを低価格のものに替えたんだそうだ。低価格ですむということなんだから、品質で今までより劣るものだ。

 劣るというか、悪いもの。悪いというのは様々な意味において悪い。そんな環境の職場に長く居たくないというのは、僕だって当たり前だと思う。

 バイトを辞めていく人間が相次いだ。心理的な不安感から辞めていくものもいれば、肉体的に限界を訴えて辞める奴も居た。僕はどうと言うことも無いので仕事を続けていた。週に七日勤務するようになったのだが、どうと言うことはなかった。

 どうと言うことがないと、言うのはだな。リスクが無いからだ。僕にとって。この工場で仕事を続けることが。

 僕は今幸せにでもなろうとしている。しかしこれには条件がある。つまり

命が続くなら。

 ということ。積極的に縮めることはしないけど、不自然でない程度の成り行きで命に終わりが来るんなら、それで別に構わない。このままここで働いて、何かの病気になって終わるんならそれでいいんだ。だから今の生活は僕にとってまったくリスキーではないのだ。むしろイヤでも給料が増えている。これはいいことだった。

 こんな生活が続いている間、僕は瀬尾さんからの手紙が憂鬱になっていた。こころから憂鬱だった。

 僕は今、瀬尾さんからの手紙がいつか来なくなってしまうことを恐れている。何でって、それは、瀬尾さんの手紙が来ることによって、僕が幸せになってしまったら困るからなんだ。

 僕はけっこう瀬尾さんの手紙が来るのを楽しみにしているんだ。僕に手紙をくれるのは瀬尾さんだけなんだから。彼女の書く字は汚くて味があっていい。他のどんな人間でもこんな汚い字を書かないだろうなと僕を安心させてくれた。こんな手紙毎月送りつけられている人間なんて僕くらいだ。

 だれがなんと言おうとこれは優越感なのだ。

 全世界で、僕一人という優越感。瀬尾さんの手紙にはこういった得がたい効能があった。だからこそ困るのだった。

 僕が瀬尾さんの手紙によって幸せになってしまったら、困るのだ。だって瀬尾さんの手紙が永遠に来続ける保障なんて何処にも無い。手紙の中で瀬尾さんはモンゴルに行ったり島根県に行ったりロンドン塔を眺めたり自由の女神が展望台になっていることを知って驚いたりしているけど、結局いったいどこでどんな暮らしをしているのか分からない。

 コンビニで会った時彼女は、そこの大学で働いている、と言ったのだが、後で調べたらその周辺にはどんな大学だって無かった。細菌を培養する実験をしている施設も無かった。そこはただただ、ものすごくたくさん何かを作る、という目的だけで稼動し続けるひからびた工場地帯なのだった。

 僕は出来れば、瀬尾さんを捕まえて手紙を出すのを辞めるように言いたかった。

「なんでいけないの?」

 瀬尾さんはこんな風に言うんだろうな。

「もう幸せにはなれたの?」

 違うんだ、と僕は言う。

「そうじゃないんだけどもう手紙は送ってほしくない。いろんな話が聞けて嬉しかったよ。君の手紙は時々ものすごくおもしろいことが書いてあった。でももうお仕舞いにしたいんだ。悪いことだけが起こりそうだからさ。」

「どうして悪いことが起こるの?」

 瀬尾さんはそんなふうに言うだろう。

「だって君もいつかは僕に手紙をくれなくなるんだろ。そしたら僕はもう幸せじゃないんだ。幸せなんかじゃなくなるんだよ。

  僕が、誰かが僕を気にかけてくれることで、幸せを感じてしまったらどうすればいいんだ? 今は気にかけてくれても、君はいつか僕のことなんてどうでも良くなってしまうんだろ。僕がどうすることも出来ないくらい、あからさまにね。

 その時僕は幸せじゃなくなる。こんなに結構な時間を費やして、またもとの位置に戻るなんてはっきり言ってまっぴらだよ。うんざりなんだ。

 そうなるくらいだったら、今すぐ君の手紙が来なくなって、君が手紙をくれた事によって僕が幸せになったわけじゃない。そう思えたほうがずっといい。

そうだったら最高なんだよ。僕は一回幸せになったのに、またすぐ駄目にするのがイヤなんだ。イヤでいやで仕方ないんだよ。」

「どうしてそんなに嫌がるの?」

 瀬尾さんはこんな風に訊くのかもしれない。

「それ以外の状態に、僕の人生がなったことが無いからだ。」

 というわけで、僕はもう数か月分、瀬尾さんから来た手紙を来たままほったらかしにしていたのだった。