僕は幸せにでもなることにした。2 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

今までが不幸なわけではなかった。僕は平凡な人間だ。凡庸な人間のことを事細かに語るのはつまらない行いだ。僕は平凡な人生を歩んだ凡庸な人間だ。それで十分。それだけで充分だ。

 そして平凡だからこそ、その行程に起こるだろうある種の苦痛、苦しみはだいたい味わった。大きな苦痛ではなかったのかもしれない。苦痛というのも大げさなのかもしれない。

 じゃあ不快と言い換えたらどうだろうか。不快で通じないなら不愉快と言ってみよう。

 そう。

 平凡な人生を歩んでいて、なんらの不愉快も感じずに生きていくことなど出来はしない。となれば、僕が自らの生きてきた過去になんらかの不愉快な出来事を経験したのだ、という僕の主張が、まったく嘘ではないと分かってもらえると思う。

 そして、だからこそ分かって欲しいのだけど、いたってありがちな不快感が人間を一人生存のぎりぎりまで追い詰めることだってあるのだ。

その人間が単純だったなら、その人間の能力が低かったなら。あるいはいっそ人間なんてそんなものなのだとしたら。

 僕は上昇と落下を繰り返して生きた。

 炭酸水の中にレーズンを入れてみたことがあるか? 炭酸水のコップの中にレーズンを入れると、レーズンは沈んだかと思えば浮き上がり、浮き上がったと思えばまた沈んでいく。永遠にこれを繰り返す。ま、炭酸が永遠に抜けなかったらの話なのだが。とりあえずそういうところを想像してもらえればいい。いっそ今からレーズンを買ってきてもらったらいい。レーズン。

 言ったように僕は別に不幸な男なわけじゃなかったから、自分はこのまま上昇していくのだと思っていた。それはとても当たり前のことに思えた。十五歳くらいのころ。上昇は無理にしてもせめて浮遊していることくらいは簡単だと思っていた。

 予想は見事に裏切られて、僕は風斬って落下し地面に叩きつけられた。痛かったなあ、あれは。人生最初の挫折というやつ。しかしまあ人生で最初だ。また登ったらいいのさ、というくらいに僕は考えていた。十八歳。

 それがいけなかったのかなと思う。今ね。二九歳になった朝の、今。あの時生活をコンテニューさせることなんて考えないで、全部駄目にしてしまえばよかったのかもしれない。全部。一度に。

 そうしていれば少なくとも、何度も同じ思いをしてどっちみち全部駄目にしてしまうことなんてなかったのかもしれない。どっちみち全部駄目になってしまったにしても。

僕は登ってものぼっても、墜落を繰り返して、最後の方では割と積極的に自分自身を痛めつけた。

食事を抜いたり、寝なかったり、酒とタバコ浸みてみたり、その結果知った。

 なんてことないんだ。

 何てこと無いんだ、さいあくな人生なんて。

 最低な人間であることが、最悪な人生であることが何だと言うのだ。それで死ぬわけじゃない。嫌なことがあって傷付いたり誰かに罵られるくらいでは、僕は死なないのだった。

 人間が死なないというべきかもしれない。しかしこういうときに人間が死なないかどうかを僕は知らない。根拠が明確でない仮説を良く知らない人に対して話すべきではない。何かを教わった先生がそう言っていたと思う。僕の記憶は常に中途半端だ。

 僕はどんなに落胆しても自分が生き続けることを知ったのだった。ちょっと前に。病気になるとか、車にはねられるとかナイフで刺されるとかなら明日にでも死ぬだろう。

 でもそうでないことにはどうも僕は死なないようである。死なないことには生きていくのだろう。生きていくんなら、仕方ない。面白く生きる方法でも考えてみるか。

 そう思って、僕は幸せにでもなることにしたのだった。

 これは僕の悲壮なる覚悟の物語である。