小説「お前は自分で考えろ。」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

「親に捨てられるのってどんな気持ち?」
移民の子どもは全員親兄弟と一緒におんなじ家に住んでいる。
そいつらの家は新しくて白くて屋根は軽くて丈夫なセラミックで出来ている。セラミックは太陽の光を弾く。弾いた分の光を街頭レンズが回収して、夜はそれが彼らの街を照らしている。
だから移民の子どもは知らないのだ。
先住民であるおれたちのほとんどはナーセリーかそれ以前の状態のときに親に捨てられていることを。
いや、違うな。
おれは親に‘捨てられた’などと思ったことはない。正直に言うとそれが現実だ。
例えばおれは食いかけのパンをそのへんに捨てる。食いかけでも腹いっぱいになれば捨てるし、腹がへっていてもあんまりまずかったら捨てちまう。
おれは おれが ものを すてる という感覚は知っている。
だが親というものに関しては、なにも知らない。それがどういうものかまったく知らない。
おれはパンをすてる感覚を知っている。しかし親がどんなものなのかは分からない。
自分が経験していない感覚に対して、
「どう?」
と聞かれても、おれは戸惑うばかりだった。
移民の子どもと違って、おれたち先住民の子どもは施設にはいってそこから学校に通っている。
移民の子どもとおれたちを見分けるのはとても簡単だ。目と髪の色がちがう。それほど顕著ではないけれど、肌の色もちょっと、違う。
おれたち先住民の子どもは施設で野菜スープとか米のボールとか炒めた肉なんかをもらって、それを食べている。
移民の子どもとそれほど変わらないみたいである。
おれたちが着る服は施設を仕切っている企業が、自分たちの工場で生産してあまったものを年に一度大きな箱にまとめて送ってくる。
その企業は移民の家族にもレクリエーションや生活物資を販売しているから、おれたちと移民の子どもの服装はそれほど違っていない。
おれたちと移民の子どもは、だいたい同じものを食べて、だいたい似たような服を着て、毎日同じ学校で勉強している。

でも違うものはある。
絶対にある。
「みんな同じこの国の人間よ。なんにもかわってなんかないのよ。」
と先生は言う。でも違う。違っているところはある。
絶対にある。
だからきっとおれは、それを毎日感じている。
もう一度言うとおれは親というものをまったく知らない。
移民の子どもが使うところの
「親」
という生き物についてまったくなにも知らないという意味でだ。だから
「親に捨てられた気持ちってどう?」
なんて質問は、おれたちの間では絶対に起こらない。おれたちにはほとんど生まれた瞬間から親というものは無いし、そうであるにも関わらずいつまでたっても親という「何か」にこだわっている奴は、おれたちの間で嫌われる。
ああ、あいつは向こう側に行きたいんだぜ。
そういっておれたちはそいつのことを嫌う。そいつがおれたちとは違う「何か」になろうとしていることを感じて、そいつのことを嫌う。
つまり、
「親が居ないってどんな気分?」
という質問が、おれたちにとっての名札の役目をしているのだ。
そういう質問をするかされるかによって、おれたちは二種類の子どもに分けられる。で、これはおれが勝手に思っているだけなんだけど、
あえてそういう質問をしてくる奴らってのは、名札の存在に一生気がつかないんじゃないかな。
特に深い意味はない。
ただおれがそう思っているだけだ。
ちなみにおれがこの質問をされるといつもこう答える。
「お前は自分で考えろ。」