小説「一番素敵なおくりもの」M.PP25 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

「帰らないと行った割にはずいぶん有意義な帰郷を果たしたみたいだね。」
“境界線がどこにあるのか分かったら、あとは自分がどっちにいたいのかを考えればいいだけ”
この夏にお役をした夜の、正体不明のおんなのこから受け取った意見があんまり印象的だったので、僕はまた先生と里山越えをしながらその時の話をしたのだった。
「それにしてもよっぽど度胸のあるお嬢さんだねえ。君の言葉によるとかの山は観光地でもないのだろうし、なんの嗅覚でそこを探り当てて、かつ君が行かなければ、一人夜をあかすつもりだったと。」
「正直心配でたまらなかったんですよ。山で夜明かしする順備なんてなんにもしてこなかった様子でしたから。
より率直に言えば自殺でもしに来たんじゃないかとひやひやものでした。」
「実際その兆候はあったのかい。」
「見極めたら、どうするか決める、というようなことは言っていました。」
この山は、大夫山とは木立の種類が違う。きっと意図的に植林されたものも多いのだろう。
たとえ別の場所から持ってこられたのだとしても、そこに植えられたのなら潔く根を延ばすのだ。その潔さは冷淡に過ぎ、おぞましさすら感じる。
境目、境界線なんてそこにあるだけなのだ。
彼女はそんな風に持論を展開していた。境界線がどこにあるか分かったら、あとは自分がどっちにいきたいのか選べばいいのだと。そんな風に言っていた。
「それに対して君はどんな風に答えたの。」
先生はちょっと勢いのよすぎる潅木の枝を力ずくで払いながら、僕に言う。
「そんなに簡単に境界線を越えられて堪るもんか、と、そんな風に言いました。」
「どうして。」
僕が先生に単純な信頼を置いているのはこういうところである。先生は学生に対して適切な回答を求めない。その学生が何を考えているのかをひたすら読み取ろうとする。そういう風にしてきっと先生は自身の学究生活を成し遂げておられる。
「あそこは中央から排斥されて行き場をなくして彷徨った挙句抜け出せないように括り付けられた人達の場所です。
その人達にとって境界線なんて初めから存在しなかった。
“向こう側に行く”
という自由が存在していなかったからです。だからそんな、境界線はあっちとこっちの変位点だなんて、そんな無機質な考え方はイヤだったんです。
これは地縁からくる本能です。」
「なるほど。歴史的な視点として的外れなものじゃない。しかし僕はその彼女の考え方にも面白いものを感じる。
そうだな、感じたことを僕の言葉で表現しようか。
彼女の言葉を受けると境界線とは我々の体の中に備わっているたった一径の脊椎なのかもしれない。」
「脊椎?」
僕は先生の言う意味をすぐに理解できない。
「境界線というのは自分がどうありたいかということを決める指標かもしれない。
どのように生きて在りたいのかという欲求を支えるための、床柱みたいなものかもしれない。自分が真っ直ぐにぶれずに立っているための、命綱だ。
しかしその大切な支柱さえも硬い一直線を持っていてくれない。
君の知るように私の脊椎は醜く湾曲して、しかも個々に別たれている。そんな不安定なものにすがって私は生きていかないといけない。
誰も助けてくれないし、そもそも自分自身も当てにできない。
しかしねこれが却って、背骨が硬い一本の棒であったらどうだろう。」
先生はしっかりした足取りで柔らかい土のアップダウンを越えながらそう言った。
「当然、自由に身動きなんて出来ない。どんなにだって自由には動けないんだな。
だからこの背骨がこうも無様な形に出来上がっているということは、そのまま私の自由を確約しているということだ。
これはこれで素晴らしいものだと思わないかい。苦労して生きていく代わりに、生まれつき人には自由が備わっている。
器質的にはね。」
「そうですね。」
自由か。
僕はお役の夜に再び見たものを網膜の裏側にまたしても呼び起こす。
あれは僕が見たいと思って見えたものだったのか。
あの時目の前にあったものが何なのか、見たいのか見たくないのか僕は決めることが出来たということだったんだろうか。
「しかし不思議なこともあるものだね。物理的確定要素の砦に籠もっていてもいかんということだ。正に夏の夜にふさわしい、心霊体験というべきものだね。」
先生はこのくだりにあってはとてもおかしそうに声を弾ませた。
「そんなこと言ったら僕にはあのおんなのこのことが一番のホラーでしたよ。」
正直ユウレイだったんじゃないかと今でも思っている。ということは先生には話さなかったのだった。