火が涌いて、弾けとんだ。
青いような。鉛のような。これを昔から涙火と呼んでいた。少なくとも、昔はそういうふうに見えていた。
「なみだ?」
彼女は雷ならぬ涙に打たれた、あどけないこどもみたいな声でささやいた。小さな言葉の先々まで喜びがびっしり詰まっていた。
「そんなものはない。」
飛沫が飛んでいるようなのだった。草の上に。木の枝に。お小屋の庇に。藪に、石に、何かの僅かな命の上に。
火が点って弾け飛ぶ。跡形もなく消し飛んでいく。在ったことさえ忘れられる線香花火みたいに。
「あなたみえているのよね。これを。だって名前を知っているんでしょう。」
「昔からずっと そうだ と言われていただけのことだ。でも伝承があるからといって、
実際に存在するかどうかを考えるのは、まったく現実的じゃない。」
「でもあなたこれがみえているんでしょう。ねえ。今日ここに来たらこれが見れることしっててわざわざここに来たんでしょう。」
「そんな物はないし、僕は何も見てない。これはただずっと長い間、昔から僕の村に居た人達が
そうだ と思い続けたから、なんとなくここにあるだけなんだ。
もうだれも涙火が点ることなんて知らない。だからここには何もない。今ここに、なんにもあるわけがない。」
「でも私は現実に見ている。火、そこ。」
「君が見たいと思ってここに来たから今見えるだけだ。境界線に呼びかけに来たんだろう。」
彼女は首を前後に倒す。
「そう。」
「それで。満足。君のいう境界線の、とりあえず向こう側がきっと見えるんだろう。」
「どうしてこれが境界線のあっちがわだって断言できるの?」
見えてもないあなたが。
ここになにもないはずのあなたが、どうして境界線のむこうをしっているの
「大夫山。」
このあたり一体はそういう名前で呼ばれている。
「タイフっていうとなんのことか知ってるかな。」
しらない
「昔はね。昔って、多分千年かそれ以降くらいの昔にね。肘の張り合いは絶えずあったんだよ。国の上層部というところでね。今もそうだけどね。でも今とはスケールがちょっと違うのかな。
うん、今は一人が動かすエネルギーが大きいから何かあっても一人で責任取れるんだ。昔は一人が使えるエネルギーが少ないから、何かあると全員で責任を取らされる。」
「なんの話しをしているの?」
「政権交代ってこと。」
何度も何度もあったんだよ、この国の、過去には。現在にもあるけどね。
「ただ今は、官僚が一人失脚してもその人が居なくなればいいだけの話だろ。でも千年前は政権交代があって誰か失脚すると、家族も親戚も近所の人も根こそぎやられたんだ。めったうちにされたんだ。」
「めったうちって?」
「土地の没収だよ。出てけって言うんだよ。今住んでるところから。選挙区代表が失言したらその選挙区ごと路頭に迷うものだと思っていい。」
「訳わかんないね。」
「昔は土地はそのままお金だから。欲しい人はたくさんいるしあればなんにでも使えるから。そしてその影に慣れた土地を追い出されたたくさんの人達がいる。
生きる方法も生きる目的も根こそぎぶんどられて、ぽかんとしたままこんなところまで逃げてくる人も居たんだ。あるいは無理やりここに住まわされた。
大夫っていうのはそういう政権争いの中でトップに立てない中間管理職みたいな人達のことだよ。そしてそういう人達がこの辺りにたくさん封じられている。」
ふうじるっていうのは?
「この土地から動いていけないようにされたんだ。もちろん実際はなんの法的拘束力もなかったけどね。でも駄目なんだ、一度封じられると。
元の土地から引き剥がされたと思うと人は駄目になる。駄目に成ったとおもった人間は駄目になる。
だからこれは涙火って言われてきたんだ。」
むねんのなみだ。
「どうしてそんなんい詳しい経緯をしってるの。」
「爺さんがずっと言っていた。そういうものだってことを。」
「ねえあなた、これが見えているよね。」
そこにいま、水しぶきみたいな、あおいやつのこと。
「ねえ見たくないだけなんでしょ。
あなたは境界の向こう側をちゃんと知っている、いえ知っていたのね、ずっとずっと。境界の向こうに何があるのか知ってたのね。
じゃあ最初から決めてよかったのよ。あっちとこっちのどっちにいたいのかなんて。
ねえあなたほんとは見えているのに、見たくないだけなんでしょ。境界線の向こう側がいやなだけでしょう。
いいじゃない、それで。向こう側がいやなんだったらこっちにいればいいだけじゃない。
言えばいいじゃない、見えるって。それでもって境界線を越えなかったらいいんじゃない。」
そんな簡単なものじゃない
「そのうち見なくなるんだ。本当に見えないと思ったら。
今見えてるのはまったく現実じゃない。いまそこに、飛び跳ねた灰色っぽいものも、まったく現実じゃない。だっていつまでも見えているわけじゃない。
おれもそのうち見えなくなる。今は確かに見えていても、そのうち見えなくなる。そしていつ見えなくなるかまったく分からない。
境界線はそんなに簡単なものじゃない。
境界線はそんなに簡単におれたちを許してはくれない。常に変動するし蛇行して波立って姿をくらましてしまう。
今のこの境界線がおれをゆるしてくれるわけじゃない。」
「じゃあわたしがいまここでさっきの、あおい涙火に呼びかけても、それは境目としての決定打にはならないということ?」
夜がそのまま口を利いたような彼女が言う。
理解とがっかり、比重の違う鉱石が行儀よく結晶した不細工な置物だ。
このこはものすごい人だ。と僕は思った。あっという間に自分の目的を果たしたものすごい人だ。
「境界線なんてそんなに簡単に捉まっていいものじゃないんだ。そんなもんであってはいけない。」
この湧いて出る苦汁の持ち主のためにね。
と僕は彼女に言った。
静脈色の火が、点っては弾け飛ぶのを見ながら。