小説「お役」M.PP22 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

本当に彼女は山を降りなかった。
日が傾いて山を降りるようになだめた。
日が落ちて山の暗さについて諭した。
日が落ちたら何が出てくるかわからないことについて、それは別にクマだオオカミだではなくて、虫だの蛇だのだということについて脅した。
しかし効果がなかったのである。
結局すっかり日が落ちて、本当の真っ暗闇に備えて僕がお小屋の四隅の常夜灯を燈して回り、当然心もとないのでLEDランタンも点けて板間の真ん中に置いた時依然彼女は、お小屋の階のところにぼんやりと座っていたのだった。
最初に彼女を見た時背にしていた板戸は、もう開け放ってある。僕は蚊除け薬を炊いた。こんな生粋の山奥でカトリセンコウになんの意味があるのか。ここで使う蚊よけというのは本当にお役のためだけに細々と造られてきた、強烈なやつなのである。大学に入るときぎりぎり一はこだけ掠めて来たのだ。
「くさい。」
と彼女が言った。
「だから帰れって言ったんだ。」
もんく言うな、これもおれの役割なんだ。
僕は一升瓶の栓を抜き、彼女の横を通ってお小屋の外に出る。灯りが無い事はたいした問題じゃない。無いならないでそのうち慣れる。現に僕は灯りのあるお小屋から出てしばらくつっ立って居たら、もう木や藪の輪郭が目に馴染んだ。
「この神酒は わが神酒ならず」
爺ちゃんが唱えているのを聞いたのは一回こっきりである。何度か繰り返してきいたとしても記憶は曖昧に過ぎる。殆どはあてずっぽうなのだが、山の守は気に触るだろうか。
「かけまくも尊こし 酒解子の神の 醸し神酒 いや栄え いや栄え。」
「なにそれ。」
「ご唱明。適当なやつだけど。接待なんだから褒め言葉使わないと。」
「呼びかけ?」
「そう、呼びかけ。君の言葉を借りるなら。」
彼女は姿のない何かに呼びかけるために、こんなところまでふらふらやってきたのだと話した。完全な符合ではなくてもとにかく妙な一致ではある。
僕もあのときにここで出会ったものに言葉をかけるために来たのだから。
僕は唱明をしながらお小屋を取り囲む同心円に、少しずつ酒を蒔いていった。何もお神酒でもない。上等なものでもない。何もかも中途半端だ。
偉大な方々をお迎えするには何もかもが中途半端なのだった。当然だ。
何もかも狂いなくしつらえてどうする。本当に偉大な方々がやってきてしまったらどうするんだ。
お小屋の中には何もない。
お小屋は純粋に、ただのお小屋である。純粋にシンプルな建物なのだった。
その真ん中に今LEDランタンがあって、四隅と上座に常夜灯を燈していて、上座に僕は湯のみに注いだ酒を置いて、眩しく光るランタンの横に僕と彼女が座っている。
「コップ持ってる?」
僕は彼女に訊いた。
「もってる。」
「じゃあ出してもらおうか。」
彼女が水筒を取り出して蓋を外し、僕はその中になみなみとお酒を注いで上げた。
「呑めるもんなら。誰が見ているわけでもないのだし。」
僕も自分の荷物からアルミカップを出してきて酒を入れた。
「お役の夜に。」
自分のカップを目の位置に挙げて彼女を見たら、
「夜に。」
と言って彼女も習った。そして
「同じ瓶からお酒飲むのって毒が入ってないことの確認なんだって。」
「握手も武器を隠し持ってないかどうかの確認なんだよね。」
どちらも意味のないことをなんとなく話した。そしてありえない奇妙な二人組みはしずかに自分の酒を飲み始めた。
「本当の理由ってあるだろ?」
「なにの。」
「こんな辺鄙なところにどうしてわざわざ来たの。山のわっさりしているところならもっと便利な場所がいくらでもある。
何に話しかけるためにここに来たの。」
僕は訊く、というか尋問してるみたいだな、と思いつつ彼女に言った。
「別に。でも見極められるかなって期待したの。」
「何を?」
「境界線。きっとこのへんにある。」
「死ぬつもりだったんじゃないの。」
すくなくとも日常を楽しんでいるおんなのこだったらあんな灰色のかおをしてこんな山奥に一人で居たりなんかしない。いや、居て欲しくないと僕は感じる。
「見極めたら、ね。」
彼女は言った。
「判断するには境界線をちゃんとしっとかないといけないでしょ。
境界線はね、ただあればいいの。あることに深い意味はないから。
境界線はそこにあることを意識できてればいいの。だって境目をつけるってことは、
自分がその向こうとこっちの、どっち側にいきたいかいたいかということだから。
そういうことだから。」
「で、見極めたら好きなほうにいくの。」
そう。
「今、ここで、呼んで、返事がなかったら。
それが境界線。ねえ、そこのあれはなんのかな。」
「どこにもなんにもありゃしないよ。」
僕は自分の酒をごくごく飲んだ。どこにもなんにも現われたりしないのだ。
あんなものは見えなかった。僕は爺さんに嘘をついていない。
あのとき僕は本当に何も見ていない。だから今も、なんにもアラワレタリナンカしていない。
「ひとだま? おにび? きつねびでいいのかな。」
「涙火だよ。」