小説「在苦 アルク」M.PP18 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

土が軟らかいと、油断が成らない。
思いがけないところで脚を取られたりするからだ。
僕は普段から用心と、自分にスキルが無いことの自覚から一人で無理な登山計画を作らない。そもそも登山と言いうるほどハードな山は選ばない。
それはほとんど「モリ」と言うべき場所じゃないかな、と元に今そういう場所を歩きながら僕は考えている。
「古墳とはそもそも山なのじゃないかと思うんだ。」
いつだったか先生とそういう話をした。
「山と言うのがそもそも塚なんじゃないでしょうか。」
塚。死体を置いておく場所。
やがて腐敗が進んで骨を露出してそれも細かく砕けて残らず土に戻っていくにしても、
“置いておいた”
という記憶は永遠に残る。誰の記憶に残らないにしても、置いておいたという事実は覆らない。
「塚というのか、いっそ重しのような気がします。
重石は押さえです。要するに塞えということだと思います。
ここは二度と動き出したらならないたくさんのものを、
動き出さないようにしっかり重しをして運動を逼塞させている場所だと思います。
だから古墳を山だというのなら、それを創った人は自分で酷い重石の下に居るんです。
そうじゃないですか?」
僕はそんな風に喋りながら、
誰も聞いていない森の中を、足元に気を配り歩き続ける。
おそらくそれは地面と上空の境界線であり、幸運と不行の境界線であり、嫌悪と好意の境界線なんだろう。
僕はそういう判断の難しいラインの上を、付かず、離れず、そして決まらず蛇行しながら
歩き続けている。
“こいつが二度と、自由きままに動き回らないように。”
居る。いるよな。僕にだってそれはよく分かるよ。そういう奴はたくさんいる。たくさん居た。
そしてきっとこの柔らかい足元の下にも居た。
土が柔らかいのは生命の層が厚いからだ。上から下に順を追って分解が活発に行なわれている。昔の団地の夕飯の喧騒みたいに。
微細な生き物が、活発にそれぞれに動き回っている。そういう土は柔らかい。
そんな活動はきっと守なのだ。守。まもり、あやし、なだめる活動。あるいは慰めだ。
微生物単位で生命の断絶は慰めの対象にされている。
そう思ってもよいのではないですか。
僕は誰に言い聞かせているとも分からずに、喋る。

「モリはそもそも盛なんだ。やまほど積みかさなっているってことなんだ。
なんだろうな。山盛りになるほど履き捨てられたということになるのかな。
山ほどそこに盛られている。ものすごく分かりやすい。
だから守をするという必要が生まれた。
そういうことじゃないのか。
そして単純に森になった。見たままの姿だな。
積み重なってる。分かりやすい。
今では積み重なったものから木が生えている。」
僕はそういう場所を選んで歩いている。
現実と朦朧の間か、夢と覚醒の間か、その無為なラインの上を付かず離れず、蛇行しながら、なお決定ができずに迷っている。
さっきは夢でも今は現実に居るかもしれない、今在る現実は一瞬で非現実に落ち込むのかもしれない。
曖昧だ。優柔不断ともいえる。
そういう理論に基づいて、僕はただやみくもに歩いている。この小さな蛇行は、はるかな上空から見れば真っ直ぐな線にしか見えないのだろうか。