小説「極楽の沙汰も金次第。」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

来迎図というものが嫌いだ。
伯母が死んだときを思い出す。
来迎図というのは、おしゃかさまだのなんとかいうぼさつさまだのが、
雲に乗ってやってきて、死んだやつをおじょうどにのっけってってくれるという、
そういうものであるらしい。
伯母が90まで生きて死んだとき、檀家になっているお寺の坊主が
「大変、信心のあったかたでしたから。」
と言って、本来なら滅多に出さないその、
来迎図というのを伯母(の死体)の枕元に掛けてくださった。
おれとか妹とかは、
現実にしたわけではないが、誰にも悟られないように舌打をした。
信心というのは、喜捨ということである。
なんだかよく知らないけど、ぶっきょーというのでは持ち重りするほど持っているということ
(金とか物とかだろう。)
はツミツクリなんで、
そういうものを喜んで捨てるのは
功徳を積んだ、りっぱなことなんだそうだ
表面的にはね。だからこそおれと妹は舌打したのだった。
伯母のやったところの喜捨というのは、
我々の伯父の稼いだ金が正体である。
伯父は金を稼ぐことに対して大変有能なひとだったので、
伯母が好きに使える金はたくさんあった。そして伯母は実際伯父の作ってきた金を
本当に、
好きなように、
使った。
その一端が例の喜捨というやつである。
伯母は伯父が必死になって作っている金を
徹頭徹尾自分のために使い切ったのである。
そして伯父が死んだ後は、その弟である我々の父にたかりつくようになった。
ようするに伯母はあほだったんである。
金とか、生活に必要なものはそのへんの誰かが自然と都合してくれるものだと生涯思い込んでいた。そしてそれが滞った時は真剣に腹を立てた。
伯母は我々の父から金をたかり取っては、
お寺に喜捨した。
喜捨は功徳である。お寺にお金をあげるのは功徳である。
だから伯母が死んだとき、坊主はその
来迎図
という、滅多に出さないものを出してきてくれたのだった。
で、あるからには、伯母は自分の死後を金で買ったんである。
伯父や、我々の父が心血を削いで作った
金を巻き上げて買ったんである。
だからおれと妹は来迎図というやつが嫌いだ。
伯母のことを思い出す。
金持ちだったらおじょうどにいけるんだと思って嫌気が差す。
たくさんお金払ったら喜んでくれるんだから、おしゃかさまもげんきんなもんだよなあ
とおれと妹は話し合う。
「なあ、これから金持ちになったら、充子と同じところに行かなきゃならんから、
生きられる程度だけ働いていこうなあ。」
とおれは妹に話す。
妹は幸い聡明なのでおれの言っていることが分かる。
伯母が父の貯蓄を食いつぶしたので、父はどうもおじょうどに行けそうに無いのだ。