小説「生恋 しょうれん」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

「おれはあいつのためだったらなんだって出来る。
例え死んだって構わない。」
と奴が言った。なので僕は
あのひとのために僕は何があっても死なないようにしよう
と思った。
このすっとんきょうが考えの無いことをしてあの人が苦境に立たされることが無いように、僕がどんなにだって努力をしよう、と。そういう風に考えた。
僕は大学を出た後就職はせずにパチンコ屋(これは、なんと言っても時給が良い)で働きながら司法試験を受験するための情報をあつめ集めして暮らした。
法曹家として自立するために、才能は必要ない。
必要なものは、やる気、根気、元気。これに尽きる。
あながち冗談でもなくて、ただただ、法律や条令を読み込んで暗記して、判例を片っ端から当たってその法解釈の視点がどこにあるのかを体に叩き込んで、問題集の例題に来る日も来る日も適応すべき法律文書を書き連ねていった。
ただ時間を掛け、ただ使うことの出来る時間に何が出来るのかを考え、そしてただただ時間をかけて、僕は弁護士になるために自分を鞭打ち急かした。
法律を自在にできるスキルは、かなり有効な攻撃力になると思ったのだ。
あの人があのすっとんきょうがやらかすであろう、
事故や事件からとばっちりを受けないために、
剣にもなるし壁にもなるこの力はどうしても僕に必要だった。
奴としても、学生時代の同期が弁護士になったと知ると、もう積極的に僕を中てにしてくる風が伺えた。
奴があの人と結婚してマンションを買うと言い出したときに、
いかにして無謀なローンを組まずに家計を維持しながら平穏無事に暮らせるか、僕は必死になって奴に解いた。
そもそもお金を貯めるとか計画的に使うという感受性に欠ける奴だったから、僕はいくらかウソも混ぜ込みながら、
結構な苦労も嘗め込みながら、奴とあの人の収入に見合うだけの物件をこの広い世界から探し出したのだった。
そろそろ僕たちも40にも手が届くという時になって、奴があの人に黙って消費者金融に200万の借金を作っているのが発覚した。
小遣い稼ぎのつもりで手をだした小額投資がままならず、欠損を埋めるための借り入れがあっという間にそんな額になったらしい。
奴はどうにかしてあの人にばれないように借金を片してくれないかと泣きついて来た。
僕は金融会社を経営している「そういった道のお兄さん」に渡りをつけるために
さる「その道の大先生」にそれなりのマージンを融通し、(これはけして違法ではない)
あとは奴が後生大事にしていた時計とかプジョーなんか問答無用で売り払い、2年くらいですべてを闇に葬ることが出来た。
僕と奴がそんなやりとりをこそこそ続けている間、あの人は毎年必ず年賀状を送ってくれた。
多くの年のそれに写真がプリントしてあって、
その中であの人は奴と南の島で得体の知れない果物を抱えていたり、
およそ地球とも思えない奇岩の上で、転落を防ぐためか
互いに硬く硬く抱きしめあっていた。
僕は今に至るまでアルバムを一冊しか持っていなくて、中のページは全部あの人がくれた年賀状で埋まっている。この先もずっと埋まっている。
奴は健康とか呑み食いに気を配る習慣がなかったので、
思うサマやりたいことばかりしていてまんまと大腸癌を発症した。
とは言ってもその時もう60を過ぎていたから進行も遅く、命を取られることは無いだろうと言われた。
僕は医療ソーシャルワーカーなどと会談を持ち、奴の入院と看護の間あの人が生活に負担を抱えないように、どんな手でも使った。
病院への送迎や家事代行を定額で請け負うNPOも探し出した。
万事そういうことに配慮のなかった奴はがん保険に入っていなかったので、収入の少ない高齢者が高額の医療費を負担しないで済む手段もちゃんと打っていた。
だというのに。
僕は一生涯あいつがへまをしないように、ずっと気を配っていた。
僕は万能の人間じゃない。
でも低脳な人間にもできる努力ならみんなやった。
というかこれ以上何をしろと言われても何も思いつかない。
それくらいどんなことだってやったのだ。あの人のために。
だというのに、あのすっとんきょうは案の定術後に想定外の急変を起して、すみやかに、と言いたくなるほど、いやいっそ爽やかに死んだのだ。
あの人の一人息子は心に疵を抱えたまま遠くの島で一人暮らしていて、葬儀の手伝いにも参列しにも来ないんだと、あの人は言った。(彼に何が起きたのか、そういえば僕は知らないな)
僕は奴の葬式を出すために棺おけのサイズから案内状の縁取りの色から花輪のグレードから、全部葬儀屋に指示を出した。
香典をくれた人の帳簿つけから香典返しのセレクトから納骨の日の日取りから、何か何まで、ありとあらゆる人間を使って、万事不足なく、
すべてを片付けたのだった。
僕が尋ねた日、奴のなんとなくくたびれた遺影を前にして、あの人は僕に番茶を入れてくれた。
奴が遺影だけになってしまうと、あの人の生活にはもうこれといって何も残っては居ないようだった。
「本当に何から何まで、お世話になりまして。」
あの人は、とても注意深く編み合わせれたように、美しく皺の乗った指先をそろえて、僕にそんなことを言った。
それは、本当に“なにからなにまで”のことを言っているんだな、
そう僕はあの人の言葉で理解した。
「ありがとうございました。」
でもそういったあの人の言葉には、棘というならなんとも哀しい、産毛みたいな皮肉がしっとりと全身を覆っていた。
それは何かを護る様に。
ごめんなさい。
僕はだめな人間です。
二人分の人生なんて命なんて、背負い込んで生きていく勇気が、
持てなかったのです。

ただ、無かったのです、自分には、そのための勇気が。
僕はあなたの人生の片隅に意地汚く寄生して、あなたの幸福な人生の余りものを
後生大事に少しずつ、口にしながら生きていきたかったんです。
僕は本当に本当に、自分の生涯を
そういう風にだけ使って生きていきたかったのです。
恋とは決して自分のものにならない物に対してするものでしょう。
あの人を手にしてしまったら、
今ある恋は消えてなくなってしまうのだ。
僕が恐れていたのは、とうとう最期まで、こういう煮えきれないものだったのです。