図書館が休みの日に、掃除をしにいった。清掃会社のバイトをしているから。
図書館のように規模が大きくて普段人がたくさん出入りする施設は、
職員さんも簡単に掃除するんだろうけどおいつかない。
月に一度は専門の業者に大掃除を依頼するのである。
窓のサッシをきれいにしたり、足拭きマットを交換したり。
こういう場所でそういう臭いを嗅ぐことがまずないだろうから、
私はすぐに気がついたのだ。
図書館の閲覧室でタバコを吸う人がいるわけ無い。
喫煙ルームには本を持ち込んではいけない決まりになっている。
書面で定めてあるだけじゃなくて、本を持ったまま喫煙ルームに入ろうとすると
たちどころにアラームがなる。
バーコードに反応して警報が作動するのだ。
そして職員に取り押さえられる(というのは大げさ)。
とにかく図書室でタバコの臭いがすることなんてまずない。
紙の書物がたくさんあるから、空調も配慮されている。
常に正常な空気が対流するように操作されている。
であるのに、むっとタバコが煙っているようなのは異常だ。
だから私はそれにに気がついたのだった。
「この本返却」の棚の辺りにモップ掛けをしていたら、
どこからかタバコの匂いがして、
それが一冊の本から発しているのが顕かに分かるほど、
書物自身がそういう息をしているみたいに、
その匂いは染み付いていたのだった。
私は思わず手にとって、雑に開いたページを、鼻で齧るみたいにして
嗅いで見た。
ねっとりというには控えめに、
かすかにというにはずうずうしく、
誰かの吸ったタバコの名残がそこでぽつんと一人居る。
更正施設というのだろうか。
民間の人達が資金をだして運営している、
アルコールやドラッグでどろどろに溶けた人達を、
冷まして、
緩めて、
整えやすくしてもう一回人間を造り直す。
そんな施設での日々を綴った本だった。
筆者は高校生活をよくあるドロップアウトで修了し、
そういう場合の定石としてヤクザさんの子分になって、
薬の取引で利益を上げつつ自分も日常的に使いつつ、
捕まって保釈されてまた捕まってでも薬から離れられなくて、
自殺未遂して一命を取り留めてそれでいっちょあがり
になったような人だった。
そんな人が書いた本を、休みなくタバコ吹かしながら、
誰かが熱心に読んだであろう、
名残がその本に染み付いていた。
一字一句、目で飲むみたいに時間をかけて読んだんだろうな。
出なけりゃこんなに匂いが浸みたりしないものだ。
私はタバコを吸わないけれど、分かる人に効いたら
銘柄が当てられるくらいに。
しかし私は次のようにも想像する。
どこかに今まさに高校をドロップアウトして、
酒でぐずぐずにたわんでいこうとしているばか息子に対し、
どうにか気を取り直してほしいお母さんが、図書館で見つけて読ませたいのだが、息子はまったくその気も無くて、手にも取らなくて、彼の部屋の床の上に、貸し出し期限が切れても投げられたままで居る。かれはその間漫然とタバコを吸い続けていた。ずっとそのままでいたのだった。
図書館から催促の手紙が来て、お母さんがそっと返しにいったのだろう。
そんなやり取りの残り香なのかもしれない。
ずいぶん違った情景だなと思う。
しかし結局その一冊の本に残った「痕跡」から私が思ったのは、
こんなちょっとの名残で容易に引っ張だすことの出来る「以前」が
自分もしっかりあるのだと、
その時の名残は、名残るのよりは鮮明に強烈に、
自分の「今」であることを、ああ私は忘れてしまうことはできないのだ。
私は今でも、あの頃の「今」変れずにいるのだと。
そういう、そういうやるせなさなのだった。