小説「ジェーン・グレイと鏡」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

レディ・ジェーンが目を覚ますと寝台の側に誰か立っていた。異変だった。
暗い。
深夜というほどの時間だろうか。深夜でも真の暗闇ではない。
目を凝らしていると立っているのが女と分かった。それだけでも彼女は安堵した。
誰だろう。侍女ならなんの用だろうか。なぜこんな時間自分の部屋に入ったのだろうか。
猶もじっとその女を見ていた。
上着とスカート、襟のレース。顔、額の具合長い髪。
よくよく見てみるとそれはまぎれもなく自分。レディ・ジェーン・グレイに相違ない。
それに気付いて彼女は今度こそ本当に、安堵した。現であるはずが無いからだった。
「あなたはだれ。」
とレディ・ジェーンは問うた。
「私はあなたよ。」
と影のようなジェーンは答える。
「ねえ、私達はなにも違わないわ。私のことをごらんなさい。私はあなた。あなたと同じおばあさまと父君から生まれたのよ。そしてこんなにも私たちは同じでしょう。ええ。そっくり同じなのよ。
あなたに与えられたものはなんだって私も持っているわ。
御覧なさいな、この姿を。私の姿はあなたの幸福。
神様があなたに与えた幸福の写し身。
でもあなたが本当にほしいものを、あなたが手にすることは無い。
でもあなたが本当に必要とするものを、
私は手にすることができるのよ。」
朝が来た。
着替えをすませて侍女に髪を整えさせて、食事を終た後、彼女の家庭教師をやっている僧侶が訪問した。
レディ・ジェーンは奇妙な昨晩の出来事を、師に話した。
「レディ、あなたのご生涯にもっとも大切なものとはなんでしょうか。」
とこの旧教者の老人は尋ねた(彼が旧教であるのはこの時代の方便というやつである)。
レディ・ジェーンはやや思索したけれど、根が聡明なこの令女はすぐに答えた。
「伴侶を得ることです。伴侶となる方を敬い高め、従い支えてともに生きることです。
私は女の身です。女の身に生まれた以上
もっとも大切なのはそのことではありませんか。」
老僧はこの答えを聞いて、何も答えはしなかったが、こう思った。
‘ではこの方はそれを得ることが無いのだ。”
その日の夜も、レディ・ジェーンが目を覚ますと影のような彼女は寝台の傍らに立っている。
「こんばんは。あなたはだれ。」
と彼女は問うた。
「私はあなたよ。ねえ私を御覧なさい。私達はなにからなにまでそっくりよ。鏡で写したみたいにそっくりでしょう。
私はあなたの未来の姿。あなたの未来が今の私。
ねえあなた。あなたはやがて思いも寄らないものを与えられるわ。
あなたが思いも寄らないものを与えらるわ。
けれどもあなたはそれを受け取らない。
あなたはそれを拒絶する。
そして私はそれを受け取る。あなたが拒否するものを、私は受け取るのよ。」
朝になった。
今朝もレディ・ジェーンは夢に見たことを師に話す。
「あなたに与えられるもので、あなたには思いも寄らないもの。
何を与えられたならば、あなたは拒絶するのですか、レディ。」
今朝の彼女はすぐさま答えた。
「過ぎたることです。」
レディ・ジェーンは続ける。
「過ぎたることとは身のうちに修まらないものです。身とは人、人とは生まれ。
生まれ持った命にそぐわないものは過ぎたることです。
過ぎた富を欲するのは教会が戒めるものでしょう。
また過ぎるとは法に過ぎるということです。法に従わずに生きるということは、罪を作るということです。
生涯に罪を作ることは、私の望むところではありません。」
老僧はまた考える。
‘では彼女はそれを与えられるということなのだ。”
その夜も顕れた影の女は、それにしてもなんて豪奢であっただろうか。
ああ、また私の夢が現れた、と思って目覚めたレディ・ジェーンは、
傍らの自分の神々しさに息を飲んだ。素晴らしい織りのドレス、南海の真珠、オリエントの宝石で作った数々の飾り物。耀くばかりに美しいその姿。
私はこんなに美しかったのかしら。
そんなことを思った。しかし意外にも女は言った。
「私はもうあなたではないのよ。」
光り輝く美しい彼女は、哀しみと情けみをこめた暗い顔をした。
「私はあなたとそっくり同じだったけど、それでも決めたの。
わたしはあちらに行ってしまおうって。
鏡にうつしたみたいになにもかも同じだけど、
あなたとは全く違うあの世界の私に、なろうと決めたのよ。
だからもう私はあなたではないわ。
あなたと私は全く違う。
あなたについぞ無いものを、私は持っているのだもの。」
朝になり、老僧がやってくるとジェーンは膝まずづいて彼に請うた。
「ああ。お優しい神父さま。どうぞ私を導いてください。どうか私にお教えください。
私についぞ備わらないものとはなんなのでしょう。
卑しい私は、何を得るためにこれから生きていけばよいのでしょうか。」
彼女は老僧に、哀しみを振りまいて去っていった夕べの女について訴えた。
そう、彼女は逝ってしまった。鏡の向こう側みたいな本当の世界に。
彼女の幸運と幸福と、それ以外なんでもかんでも持っていってしまったのだった。
老僧は彼女の問いには特に答えなかった。
しかし彼女のために聖書を捧げ持ち、祝福の言葉をささやかに唱えたのだった。

レディ・ジェーン・グレイ。
彼女がほしかったのは彼女の治世を支える夫。しかし現実の夫は彼女をただの駒にしただけ。
彼女にいらなかったのは金色の被り物。この上ない宝物。王さまの証。しかし現実は彼女にそれを与えた。
彼女がついぞ持っていなかったもの。それは野心。あるいは奸心。それがあったら生き延びられた。
生き延びていれば、彼女は偉大な君主、英国初の女王、
ジェーン1世。
そんなやつはいやしない。
(だが正確には彼女は法に逆らったわけではない。むしろ法に忠実に生きて、そのために死んだ。法律が人間を殺すという、良くある話のひとつかもしれない。)