「岸が風邪引いたらしいから岸んちで鍋すんぞ。」
なんのことだろうと思った。
「なんでわざわざ岸んちいって鍋なんだよ。」
風邪を引いているやつの家に行って。
「昔から風邪の時は鍋だ。」
どういうことなのだと思った。
曰く、山田の家はそこそこの貧乏で、誰かがケガや病気で無い限り、
肉の入った鍋なんぞ食えなかったのだそうだ。
寒い時期、鍋でも食いたいなあと思うと、
誰か風邪ひかねえかなあという希求へと通じ、その切なさが
風邪→鍋の好機
という図式を今に伝えているのだとか何とか。
まあいい。何も鍋が憎いわけで無い。
「何鍋すんの?」
「持ってる奴による。」
なんだそれは。
「誰呼ぶの?」
「来れるやつによる。」
なんなんだそれは。
山田は近隣で一人暮らしをしているやつに適当に連絡を入れたらしい。
「おまえ暇? じゃあ鍋だ。」
と、これだけで来れるやつは
「行く。」
と言うのだから、確かに我々の遺伝子の中には
鍋への好愛が刻み込まれているのかもしれない。
が、だからと言って我々は学生であり、世は不景気であるので
山田でなくてもみんな貧乏である。金は掛けられぬ。
「肉を出せる奴は居るのか。」
と山田が号令をかけても、
「魚肉ソーセージならある。」
「ちくわ。」
とか行っているばかりで話にならない。
「白菜のある奴はいるか。」
これは実家が農家の奴がいて光明であった。
そいつのところには大根だの冬野菜が段ボール(けっこう巨大な)
でずんと届くのだ。
「何鍋にするんだ?」
「うちキムチある。」
「なんかとんこつスープのやつが旨いらしいぞ。」
「ポン酢でいいんじゃね?」
などと言っているうちに山田によって、
「今出たもの全部もって岸んちに6時だ!」
と訓示されたので、結局は闇鍋じゃねえかと思った。
最終的に食えるものにするためにはどうするべきなのか。
カレーだ。
カレー味にしてしまえばすべては丸く収まるのである。
流しの下のもの入れを探って、前にドラッグストアの割引で買った
5食入りのカレーラーメンをボストンの中に詰めた。
というのに、
5時過ぎたころに山田からこう来る。
「岸んちに彼女来てるらしから来るなと言うことだ。」
この連絡は今日鍋をするんだということで
ずっとああでもないこうでもないと言いつづけた
何人かの頭皮を寒々となでて言ったように思える。
清とする空気が降りて来る。温度よりもいっそ。
「しかたねえ。全員もてるもんもっておれんちに来い。」
と山田から最期通牒がなされたのだった。軍曹殿。
おそろしくどうでもいいことなのだが、
次に誰かが風邪をひいたとしても、岸を呼ぶ奴は
いないんだろうなとおれは思った。