人間を30年もやっていれば人並みにいやな思いもしてきた。
融通が利かない状況に苛立ちも摺れば
自分の形にぴったりあった箱の中にいるような窮屈も経験した。
そのすべてがおれの自分でのぞんで招いたことだったとしても
おれがその現実を外部に表現する手段をつねに怠らなかったとしたら
おれの過去が「向こう側」にいる彼がれにとって
「向こう側」で起きている出来事であることは
それはどうしてもおれが原因であることなのか。
ふぃくしょん
というものが出来事を選択するためのある種のフィルターであるなら
おれの側にはその膜を通して何もはいって来ないのだし
「向こう側」にはおれの体液は一ミリも沁みていかないらしい。
おれの今自由になったこの手足を
昨日今日の夢だと思う
こいつらはどういう生き物なのか。
おれのこの押さえつけられていた智識が
軽く素晴らしくはねていることに
だれも気が付かないのはやはりおれがわるいのか。
否いな
言っているのはもう煩わしいだけで飽きてしまったから
おれは今自分がこうして考えていることこそ
正しいと思っている