🍀長年続けたXをやめようと思った。

正確に言えば、何度もやめようと思った。

アカウントを削除しようとして、パスワードでつまずいたり、停止画面から先に進めなかったりした。

「もう、いいや」

そう思ったことが何度もある。

ところが、いざ過去のポストを眺めてみると、なかなか消せなかった。

そこには、その時々の自分がいた。

虫を見つけた日。

山へ行った日。

誰かと出会った日。

嬉しかったこと。

考え込んだこと。

意気消沈したこと。

そして、今となっては忘れていたような小さな出来事まで残っている。

SNSというものは、便利な記録装置なのだと思う。

ただし、困ったことに、人生まで一緒に保存してしまう。

だから、消そうとすると、単なるアカウント削除ではなくなってしまう。

「この頃の自分まで消してしまっていいのだろうか」

そんな気持ちになる。


私は、どうも傷つきやすい

これは、今さら隠しても仕方がない。

私は、かなり傷つきやすい人間なのだと思う。

ナイーブと言えば聞こえはいい。

別の言い方をすれば、心の皮膚が少し薄い。

人の言葉が、思った以上に入ってくる。

特に、文字だけの言葉は怖い。

対面なら、相手の表情がある。

声の調子がある。

少し笑っているのか、怒っているのかも分かる。

「いや、そういう意味じゃないですよ」

と、その場で修正することもできる。

ところがSNSでは、文字だけが残る。

短い一文が、時にはこちらの想像の中でどんどん大きくなる。

書いた人は、そこまで考えていなかったかもしれない。

しかし、読んだ自分の心の中では、その言葉が何度も繰り返される。

文字は静かだ。

だからこそ、ときどき大きな声に聞こえる。


虫の世界でも、私はSNSに疲れた

私は昆虫が好きだ。

特に野外で虫を見ることが好きである。

クワガタを探して山に入る。

木を見て、その周囲を見る。

樹液が出ているかを見る。

葉の状態を見る。

季節を見る。

以前は、もっと大きな個体を見つけたいと思っていた。

何ミリあるか。

どんな形をしているか。

それも虫の楽しみだった。

しかし、年齢を重ねるにつれて、少しずつ興味が変わってきた。

「どうして、この木にいるのだろう」

「なぜ、この場所を選ぶのだろう」

「今年の山の環境は、去年とどう違うのだろう」

そんなことを考えるようになった。

虫の大きさだけではなく、虫を取り巻いている世界のほうが気になってきたのである。

ところがSNSを見ると、どうしても比較が始まる。

大きな個体。

珍しい個体。

たくさんの個体。

見事な写真。

それらが次々に画面に現れる。

私はふと思う。

虫を見ているはずなのに、いつの間にか人間同士を見比べている。

これは少し不思議なことである。

自然の中では、虫は誰かと競争しているわけではない。

クワガタは、

「私のほうが大きいでしょう」

などとは言わない。

ただ、そこにいる。

その姿を見ているうちに、人間のほうが勝手に順位を作り始める。

そう考えると、少し可笑しくなる。

そして、少し怖くもなる。


私も、言葉で人を傷つけたかもしれない

SNSで虫についてコメントしたことがある。

私は、人気のある虫について、多くの写真や情報が一気に出ていくことを少し心配していた。

私としては、その虫を否定したかったわけではない。

むしろ逆だった。

この虫が、これからも山にいてほしい。

できれば、次の世代の人にも出会ってほしい。

その気持ちから書いた。

しかし、私の言葉は、相手には違って受け取られた。

そして、やり取りが生まれた。

私は自分のコメントを削除した。

その後も、いろいろ考えた。

「書かなければよかったのか」

「言い方が悪かったのか」

「そもそもSNSで、こういうことを言うべきではなかったのか」

別の場面では、

「そういうことはSNSではなく、DMで伝えるべきだ」

という意見もあった。

それも分かる。

SNSにはSNSの作法があるのだろう。

しかし、私はそこで一つのことを学んだ。

人間は、正しいことを言えば必ず伝わるわけではない。

そして、

善意で書いた言葉でも、相手を傷つけることがある。

これは、教員を長くやってきた自分にとっても、改めて重いことだった。

教室でも同じだった。

教師は「子どものため」と思って言葉をかける。

しかし、受け取る側の生徒にとっては、その言葉が別の意味になることがある。

SNSは、それをさらに難しくする。

表情も、声も、沈黙もないからだ。


では、私はSNSに向いていないのか

私は、そう考えた。

「自分はSNSをやめたほうがいいのではないか」

と。

でも、最近は少し違う考えになった。

SNSをやめるか、続けるか。

その二つだけではないのではないか。

SNSを小さくする。

そんな方法もある。

これは、私には大事な発見だった。


Xを人生の舞台にしない

私は、Xで誰かと分かり合おうとしすぎなくていい。

すべての誤解を解こうとしなくていい。

すべてのコメントに返事をしなくていい。

反論されたからといって、反論し返さなくてもいい。

「そういう考え方もあるのだな」

そこで終わっていい。

人間関係というのは、どうも「最後まで説明すれば解決する」というものでもないらしい。

長く生きてきて、それくらいは分かってきた。

それでも、分かっていても気になる。

そこが、私の困ったところである。

たぶん、これからも完全には直らない。

だからこそ、距離を取る。

傷ついたら画面を閉じる。

少し時間を置く。

山へ行く。

虫を見る。

そして、文章を書く。


私にはブログがある

私はブログを書くことが好きだった。

Xの短い文章では書ききれないことを、長文ブログならゆっくり書ける。

虫の話から教育の話へ。

教育の話から人間の話へ。

人間の話から、自分自身の話へ。

途中で道に迷ってもいい。

寄り道してもいい。

「何を書いているのか分からなくなった」

というところまで書いてもいい。

人生そのものが、だいたいそんなものだからである。

私はブログを書くとき、虫だけを書いているつもりはない。

虫を通して、自分を見ている。

人間を見ている。

教育を見ている。

そして、老いていく自分を見ている。

だから、私にとってブログは「発信」というより、考える場所なのだと思う。


Xは「森の入口」にする

これからの私は、Xをそんな場所にしてみようと思う。

毎日投稿しなくてもいい。

何かを書かなければならないと思わなくてもいい。

ブログを書いたときに、

「今日は、こんなことを考えました」

と、森の入口に小さな札を立てる。

虫を見つけたら、

「今日はこんな虫に出会いました」

と写真を一枚置く。

それくらいでいい。

Xの中で人生を完結させなくていい。

「いいね」の数で、自分の一日を採点しなくてもいい。

フォロワーの数で、自分の価値を測らなくてもいい。

私はもう、学校の通知表をつける仕事からは卒業した。

それなのに、今度は自分で自分に通知表をつけている。

「昨日はいいねが○個だった」

「今日は0だ」

……。

考えてみれば、ずいぶん忙しいことである。

もう少し、楽に生きてもいいのではないか。


「急がず、決めつけず、静かにゆっくり見る」

私は、昆虫を観察するとき、

急がず、決めつけず、ゆっくり見る

という姿勢を大切にしたいと思っている。

最近、それは人間にも当てはまるのではないかと思うようになった。

相手の一つの文章だけを見て、

「この人はこういう人だ」

と決めつけない。

自分が傷ついたからといって、

「相手が悪い」

と決めつけない。

反対に、

「全部、自分が悪い」

と決めつけない。

ただ、

「私は今、傷ついているんだな」

と、自分を見る。

昆虫を観察するように、自分を観察する。

これは案外難しい。

虫なら逃げても追いかけられる。

自分の心は、逃げるときはもっと速い。

だから、少し立ち止まる。


傷つきやすい自分を、無理に変えなくてもいい

私は、もっと強くなったほうがいいのかもしれない。

何を言われても、

「まあ、そういうこともある」

と受け流せる人になったほうがいいのかもしれない。

私はもう下り坂の人生を歩んでいる。

無理に自分を別の人間に作り替えなくてもいいのではないかと思っている。

傷つきやすいなら、傷つきやすいままでいい。

ただし、自分を守る方法は覚えたほうがいい。

すぐに返事をしない。

画面から離れる。

その場で結論を出さない。

必要なら距離を置く。

そして、自分の心の場所へ戻る。


私は、虫を見ながら生きていきたい

これからも私は虫を見る。

探す。

花を見る。

木を見る。

そして、ときどき人間を見る。

いや、人間を見ているつもりで、自分自身を見る。

それが、これからの私の虫活なのかもしれない。

若いころは、

「珍しい虫を見つけたい」

と思った。

今は、

「虫を見て、自分が何を感じるのかを知りたい」

と思う。

これは、虫の趣味から人生の趣味へ、少し変わってきたということなのかもしれない。


Xを小さくする

だから、私はXをどうするかについて、以前とは少し違う答えを持つようになった。

完全にやめる。

無理して続ける。

その二つだけではない。

小さく使う。

Xは人生そのものではない。

SNSも人生そのものではない。

そこに残った一つの言葉が、自分の人間としての価値を決めるわけでもない。

私は63歳になった。

36年以上、教員として人と関わってきた。

うまくいったこともあった。

失敗もあった。

人を傷つけたことも、おそらくある。

そして、自分も傷ついてきた。

その全部を含めて、今の自分がいる。

だから、もう少し不器用なまま生きていこうと思う。

完璧に人付き合いができる人間にならなくてもいい。

完璧にSNSを使える人間にならなくてもいい。

ただ、

急がず、決めつけず、静かに、ゆっくり見る。

虫を見るように。

人を見るように。

そして最後には、

自分を見るように。

Xには、小さな言葉だけ置いてくる。

深く考えたいことは、ブログに書く。

そして、山へ行ったら、ながめるように木を見る。

そこに一頭の虫がいるかもしれない。

誰にも「いいね」されなくても、その虫は生きている。

そのことを思い出せば、私も少し楽になれる。

SNSの向こう側に人生があるのではない。

人生の途中で、ときどきSNSがある。

そのくらいの距離でいい。

私はこれからも、虫を見ながら生きていきたい。

 

             2026.9.30(水)秋晴れの1日☀

 

 

          8月に確認したヒョウタンゴミムシ