自然観察員志望動機

【 他に遊びがなく、虫が身近にいたからだろうか。物心ついたころから昆虫が好きで、60歳になる今も、散策し、昆虫観察を毎年続けている。結果をまとめブログに発表することも楽しみで、気がつくと10年以上続けている。

桜の花が満開になる4月初旬、カタクリの花の蜜を求め、某施設にヒメギフチョウが飛来する。自分の虫スイッチが入る。カメラ片手に訪問すると、常勤している観察員がカタクリの花の説明をしていた。

「・・根は地中深くまで伸び、場所に根付くまで何年もかかります。花言葉は何と「初恋」です♥」

照れながらも嬉しそうに説明するその姿。私がこの仕事に魅力を感じ、定年退職後の目標にした動機である。顔を赤らめながら(自分たちが心を込めて育てたカタクリの群生を)一所懸命に伝えている姿に感動し、自然を愛する自分の心がとても温かくなったのを覚えている。あれから3年が経つ。

里山に赴き、静かに耳を澄ますと「自然は生命そのもの」であることを感じる瞬間がある。その感動の瞬間を、私もその一人として、これからの人たちに伝えていきたいと強く感じている。人と自然の生きた懸け橋に携わっていきたい。】

 

 結果的に某施設の「観察員」採用試験は✖となった。

巻頭に掲載した作文は、日々の仕事を終えて、寝る間を惜しんで記した志望動機の作文(実際は字数制限の手書き原稿用紙)。書類審査が通ったことはとても嬉しかったが、1月下旬に行われた二次試験の面接で落とされてしまった。

当日のメモにはこんなことが書いてある。

 

「・・面接会場には時間前に着いた。面接者は時間で指定されているからなのか自分ひとり。不安な気持ちを落ち着かせる暇もなく、「時間前に面接します」と言われ、緊張しながら2階会議室に入室すると、3人の面接官が俺をじっと見ていた。向かって左側に座っている眼鏡をかけた年配の役員らしき男性が、どうやら決定権を持つようだ。笑顔もなく上から目線の表情。「質問には短く答えて」とか「仕事中、怒られても大丈夫か」とか「(ダメだったら)他の嘱託の仕事も希望するか」等、自分がよくイメージできない質問が多かった。「私は観察員を希望しているので、できないなら断ります」と正直に答えた。

中年の二人の職員は、イメージできる自分が好きな昆虫についての質問だったので答えやすかったが、(学校職場では一切、昆虫について話す機会もないので)質問されて逆に嬉しくなり、授業でもしている感覚で好きな虫について説明してしまった。「ブログ名を教えてください」と言われたので、正直に教えたが、「自分の宗教臭い?ブログなど教えなければよかった」と後になって後悔した。役員らしき人は、私の説明が長いせいかイライラしていた表情だった。

面接が終了した瞬間、直感的にこれは落とされたと感じた。・・」

 

これが面接当日のメモの記録である。

結果の電話発表は、学級の校外学習の日だった。ダメだと感じてはいたものの「もしかしたら・・」と期待し、スマートホンをずっと背広の内ポケットに入れていた。

しかし、発表の時間が過ぎても全く電話が鳴らなかったので不合格と感じた。念のために勤務時間終了直後に、確認の電話をこちらから入れてみたら

「電話がないということは書類に書いている通り(不合格)です」

と受付の方に言われた。とっても落ち込んだ。

 

           結果を教えられた瞬間の私の表情です。(^^)/ 

 

 

 2月上旬、不合格通知が正式に届いたときはショックが倍増した。「何落ち込んでいるの?」と受験に向けて頑張っている生徒たちに笑われるかもしれないが、仕事が忙しい中、苦手なネットで情報を探し、面接試験を受けたが、その努力が実らなかったこと。実は今も心の中でそのショックがまだ消えていない。

 難病の妻に大学生の息子。3月末で収入が切れてしまうから、家族の生活費ぐらい自分で何とかしたかったのだが、落ちたショックもあり、「定年鬱」状態が続いている。希望していた仕事をあきらめ、改めて自分が働きたいと感じる仕事を探すのは時間がかかるものだ。1から仕切り直しだ。60おやじの仕事探しの厳しさを垣間見えただけでも勉強になった。感謝しよう。

 

 

もうすぐ春が来る。今後も昆虫観察をやめたいとは思わない。また明日から、自然の声を聴こう。(^^)/平和

 

 

 

 

 

           

 

 先週、教員評価の校長面談があった。(もし、観察員面接が合格していたら校長先生にも話すつもりだったが、不合格だったので話さなかった)

定年退職直前の教員評価面談。今年度の新校長からは最後に

「今年度、ありがとうございました

と言われた。評価面談で

「ありがとうございました」

と言われたのは初めてだったので涙が出そうになった。

 

自分は毎回、自己評価を低くつけてしまう。息子が幼かった17年ほど前、(今はもうない大好きだった田舎の中学校から特別支援学校、そして近隣の学力のレベルが高い生徒が多いといわれる?中学校に赴任した1年目)、当時の学校長(体育)から突然校長室に来るように呼ばれて、こんなことを言われたのを思い出す。

 

『先生は今の時点では評価がDである。どんな意味を持つか知っていますか?』

何かを言いたいようだったので

「よくわかりません」

と答えたら、突然荒々しい声で、

『Dになると研修センターに行き、所属校の校長が判断しない限り現場復帰できない。給料も減額される。評価が悪くてもなんだかんだ言わないように!

と。

 

悲しかった。当時の日記に詳しく記してあるが、この年度は支援学校勤務後、近隣のM中に転勤したばかりで、特に苦しかった。夕方の部活が終了したあと、(夜7時ごろに)、毎日のように個室に連れていかれ、夜遅くまで太鼓持ち?の教頭(数学・石巻出身)から、毎日の社会の授業等、理詰めで集中的に質問され、答えられないと罵倒される過去一番のパワハラも受けていた。他の社会科の同僚に話しても、信じてくれず、どうやら自分だけ集中的に攻撃されていることが分かった。(この教頭はその後出世して、石巻管内の校長になった。噂によると、息子さんが不登校状態であったらしい。家庭におけるストレスを自分にぶつけていたのかもしれない。当時、そんなことなど知らなかった自分は、ひたすら耐えていた)

「まじめに働いているのに、なぜ自分だけがこんな扱いを受けなければならないのだろうか。特別支援学校にいたから授業が下手であるという固定概念も感じる。支援学校の前は学年主任も経験し、全学年の社会科も教えていたのだが、この学校に赴任してから自信がなくなってきた。・・」日記にその悔しさをぶつけた。

忍耐できたのは、怒鳴られながらもイエスの十字架の苦しみを思い出していたからだ。結果的に、総合評価はDではなかったが、情報がなく、「指導力不足教員」という烙印が押されたら本当のところどうなるかわからなかったので、不安を感じつつも

『教員改革』~問題教員と呼ばれる彼らと過ごした三年間~ 鈴木義昭著 東洋出版

を購入し、この本を読むことで情報を得た。

以来自分は、評価の面談に対していつも緊張し、臆病になってしまうようになった。(今から約17年も前のことである。この学校に結果的に8年も務め、その間に妻が障害を持つ(失明)と東日本大震災による被災など悲しい出来事もあった)

 

★「評価」という言葉は、「査定」されるというイメージがあり、どうも好きになれない。これは自分だけではないだろう。(昔、自分が生まれる前の1950年代に教師たちによる「勤評闘争」というのがあったということは、小説などで知っていたのだが・・)

故・安倍内閣時代、新自由主義の旗のもと「教員評価」が本格的に導入されるということで、導入直前に、自分の中の嫌な気持ちを解決させようと、評価関係の本をたくさん読んだりもした。その流れで、大学教員の評価システムや一般企業の査定システムを参考に制作していることも分かった。

しかし、あえて言うが、「評価」と「査定」はまったく異なる。それを知っている人はほとんどいない。管理職自身もわかっていない方がほとんどであった。始まった当初から「教員評価」による「脅し」を体験した自分である。

 

 

 

 

 自分の馬鹿正直さは治らず、中学校教諭として最後となる今年度も、自分に厳しく総合的に低い自己評価を付けて提出した。

「自分でつけた評価は自分のもの。他人がつけた評価は他人のもの」「自己への評価は自分自身で高める」そんな言葉を思い浮かべながら自分を励ます。

 

自分は何て生き方が下手な人間なんだろう。60歳を過ぎたとしても「自分という人間」が、いまだによくわからない。しかし、最低限のプライドだけは大切にしている。(長かった教員社会の中で、自分の最低限のプライドもズタズタにされたことが多々あったことも事実でもある。しかし、自分がこれまで休むこともなく働けたのは、何だかんだ思いながらも、教える仕事が好きだし、生徒たちの笑顔が大好きだからだ。これまで支援して下さった保護者の皆さんにも大変感謝している(^^)/)

 

 

 

職場でまじめに仕事を行いながらも、家に帰れば、うまくいかなかった面接試験を思い出しながら、大学生の息子と共に就活の勉強をしている。定年おやじが大学生の息子と共に、就職のために勉強をするなんて、考えてもみなかった。

 

 

 

自分は何ができるのだろうか。これからどう生きればよいのか。こんな自分でも貢献出来る何かがあるのだろうか。哲学者であり、アドラーを学んでいる心理学者の岸見一郎さんは『定年をどう生きるか』(SB新書)の締めくくりでこう記している。

 

「定年について考えるということは、結局生きることについて考えるということです。人間の価値は生産性にではなく、生きることにあるということです。」

 

不安な自分に寄り添い、励ましてくれる言葉を大切にしたい。おそらく、これからも自分は思い煩い、先の不安に悩むだろう。もがいて、イライラしたり、自虐的になり、自己肯定感が低くなることもたくさんあると思う。でも、「定年について考えるということは生きることについて考えることです」と岸見さんが教えてくれた言葉を信じ、改めて自分の生き方を見つめなおしていきたい。平和は私から始まる。

 

                   

 

Myself (自分自身) 

          作詩・作曲 長渕剛

 

人ごみに紛れると なおさら涙がでるから 

やっぱり一人になろうとした

それでも 寂しくて涙が出たから 俺は初めてほんとの友を探した

 

やりたい事と やりたくねえ事とが おもいどうりに いかなくて

「夢はなんですか?」と聞かれる事が この世で一番怖く思えた

 

だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ 生きてえ

恥ずかしそうにしてる お前が好きだ 

だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ 生きてえ

寂しさに 涙するのは お前だけじゃねえ

 

上を見ると 負けたくなくて

悔しさと羨ましさを かくして笑って見せた

俺みたいな男はと背中を丸めたら やけに青い空が邪魔くさく思えた

離れていく者と 離したくねえ者とが 思いどうりにいかなくて

ひとときの楽しさに 思いきり身をゆだねたら

なおさら 寂しくて 涙も枯れ果てた

 

だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ 生きてえ

恥ずかしそうにしてる お前が好きだ 

だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ 生きてえ

寂しさに 涙するのは お前だけじゃねえ

 

                     令和5年2月28日(火)記す

 

★追伸  

先日、評価結果シートを返却された。心温まる校長先生のコメントに胸が熱くなり、誰にも見えない場所で泣いた。笑い泣き

この評価結果シートは定年教員として、最後の大切な思い出として残しておきたい。