🍀定年退職してから、春になると思い出す場面がある。
それは教室の記憶というより、里山の光景に近い。
iPadが一斉に導入された年のことだ。
ヒメギフチョウが舞う季節だった。
カタクリの花がまだ朝の光を受けて、完全には開ききらない頃。
すでに動き出しているものと、まだ静かなままのものが、同じ時間の中に並んでいた。
そのときの職員室の空気は、不思議な静けさを持っていた。
説明は確かにあったはずだ。
けれどそれは、風のように流れていき、どこから掴めばよいのか分からないまま過ぎていった。
周囲の指先は迷いがなかった。
画面は当然のように開き、次の操作へと進んでいく。
まるで羽化したばかりの蝶が、最初から飛び方を知っているかのようだった。
その横で、自分だけが少し遅れて立っていた。
地面の側にいる感覚のまま、土の温度を確かめるように、ひとつひとつの操作を追いかけていた。
どこでつまずいたのかも分からない。
ただ、「分からない」と言う前に、場の速度が先に進んでいた。
今思えば、それは単なる機器の問題ではなかった。
「すでに分かっている人」を前提にして流れていく説明の中では、
入口そのものが見えなくなることがある。
理解できるかどうか以前に、
どこから入ればよいのかが、最初から共有されていない。
そのことに気づけなかったまま、時間だけが進んでいった。
🍓ヒメギフチョウの飛ぶ季節は短い。
少し遅れれば、その姿はもう見えない。
その一瞬の速度と重なっていたのかもしれない、と今では思う。
説明の速度は、誰かにとっては十分でも、
別の誰かには、手の届かない速さになることがある。
🌸定年退職してから、その春の光だけがやけに鮮明に残っている。
カタクリの紫と、まだ冷たい風のあいだに、
言葉にならなかった時間が、今も静かに居座っている。
もしかしたら、これが
GIGAスクール構想に対する不信感?を感じた最初の体験なのかもしれない。
2026.5.24(日)
★
iPadが導入されたときのことは、今でもはっきり覚えている。
説明はあった。しかしその説明は、すでにiPhoneなどApple製品に慣れている人たちを前提にしたものだった。自分には、その前提が抜け落ちているように感じられた。
何が起きているのか分からないまま、周囲は当然のように進んでいく。どこで止めればいいのかも分からない。分からないと言えばいいだけの話かもしれないが、その場には「今さら止めてはいけない」という空気が確かにあった。
その結果起きていたのは単純な“習熟の差”ではない。
理解できる人と、理解できないまま進む人が、同じ場にいながら別の速度で切り離されていく現象だった。
あれは誰かが悪意を持って排除したわけではない。だが、構造としてははっきりしている。
「分かる人だけで回る仕組み」になった瞬間、分からない人は存在しないことにされてしまう。
今振り返ると、あれは教育の場というより、無自覚な選別装置のようでもあった。
iPadが導入されたとき、自分はAndroidを使っていた。そして今も、個人でiPadは持っていない。
その状態で現場に入ると、あることに気づく。説明は「全員に向けているようでいて、実際にはすでにApple環境に慣れている人たちを前提に進んでいる」ということだ。
その前提に乗っていない人間は、理解のスピードではなく、“理解するための入口”の時点でずれていく。どこが分からないのかを言語化する前に、流れは先に進んでしまう。
結果として起きるのは単なるスキル差ではない。
同じ職場にいながら、「説明が届く側」と「説明の外側」に分かれていく感覚だ。
今振り返ると、それは誰かが意図した排除ではない。ただ、共通の前提を持つ人だけで回る仕組みが、静かにできあがっていただけだと思う。
そしてその中にいない人間は、気づかれないまま外側に残る。
今思い出すと、とっても悲しい・・・😢
追伸。🍀先日、スマホを新しくしました。我が家は裕福ではありませんので家族みんなandroidです。今回は息子と同じグーグルピクセルにしました。わからなくなった時は息子に聞いて覚えるようにしています。上の体験は教員の世界だけでなく息子の職場でも起こっていました。でもこのことが「もう自分は使えない人間なんだな」と痛感したのは事実です。定年退職2年前のこの年度にはパワハラもありました。(´;ω;`)ウッ…
ちなみに、社会人三年目の息子の職場は契約用のタブレットがApple製品のiPad、一台しかない業務用のスマホがandroidだそうです。彼は今の職場に赴任した昨年の春、自分の給料でApple製品のiPadを購入しました。使い方を自分で覚えて職場のApple製品のiPadに備えたようです。職場のマル秘情報が入っているかもしれないのでデジタル機器音痴の自分が使うこともできません。最も番号もわかりません。
そういえば、定年退職後次の年度の再任用面接のとき「iPadが使えますか?」と県教育委員会の面接官に最後に質問され、「正直、今は使えませんがスクールサポーターしている中学校で若い先生が使う授業を見て勉強しています」と答えた。この馬鹿正直さが仇となり不採用になったのかもしれない。この時の面接官の表情が「ダメだこりゃ」という顔をしていたからだ。
とても悔しかった。
「IТCを使ったカップヌードル的?授業は自分もできるのに‥。一年間でいいから廃棄処分になった中古のApple製品のiPadをお借りして家に持ち帰って使い方に慣れたかった」
今となっては後悔だけが残る再任用面接結果になってしまった。教壇に立って教えることも二度とできなくなってしまった。🍓ちなみに以前書いたIТCを使った「カップヌードル的授業」は教室が荒れて教師の指示が通らない暴力環境状態では効果が全くない。教師は焦り、ただ流れるだけに終わってしまう。一応、教科書終わった感だけは最後に何とか出すことはできるけど・・。
だからだろうか?
通勤電車でAndroidよりも高くて、手が出ないAppleのAiphoneスマホを使っている若者たちを見ると嫉妬を感じてしまうことがある。
大人でもそうなんだから、中学・高校生はスマホがAiphoneでないことが、いじめのきっかけになってしまう可能性も高いだろう。(某スマホショップでスマホを買い替えたとき店員から聞いたことだが、Aiphoneでないと嫌がるらしい。仲間はずれされるから仕方なく、親は高いローンを組んでAiphoneを子供のために買うらしいのだ。)
子どもの世界は大人社会の雛型だ。
フラクタルな関係で大人の社会で起きていることが子どもの世界でも起きているのだ。
退職三年前、当時三年生の公民を教えたクラスの男子生徒数人に授業中、突然、
「先生はスマホ持っているんですか?Aiphoneですか?androidですか?」
と質問してきた。
当時スマホは持っていなかったので
「ガラパゴス携帯なら持っているよ」
と大きな声で答えたらみんなに笑われた。次に、
「先生は結婚しているんですか?」
と聞いてきたので
「しているよ。息子もいるよ」
と答えると『すげー』という反応。
なんですごいのか自分にはわからなかったので、
「普通のことでしょ」
と答えたのを書きながら思い出しました。(笑)🥰



