さてさて…
国母詮子(こくもせんし)の四十算賀(しじゅうさんが)の宴席で、見事な納蘇利舞(なそりまい)を披露した、道長次男巌(いわ)に
対して…
一条帝(いちじょうてい)は、彼の舞の師匠である多好茂(おおののよしみち)を従五位下(じゅごいげ)に叙すことを宣言しました
この数日前に行われた予行演習に相当する試楽(しがく)では、陵王舞(りょうおうまい)を演じた、道長長男の田鶴(たづる)が
帝の衣類である『御衣』(おんぞを)を賜るという恩恵に浴しており
本来なら、舞を披露した巌自身が恩賞に与るべきであったと思われます
それを、巌本人ではなく、敢えて舞の師匠への昇叙という遠回し的な形を取った理由はわかりませんが…
先の田鶴への御衣恩賜に続いて、今また巌にも恩賜を賜うことを、道長が遠慮して、これを辞退するのではないか
と一条は考えたかもしれません
田鶴への恩賜については、事前に調整等が行われていた可能性が髙いのですが、正直な所、舞の出来栄えに限って言うならば…
巌の方が明らかに田鶴を上回っており、一条は片手落ちにならない様な配慮が必要と思ったのでしょう
但し、田鶴の時と同じく、巌の恩賜についても道長に打診すれば、固辞される可能性があり、それでは帝の面目が立たない訳で
敢えて一条は、道長に打診をせずに、多公茂への昇叙を決定当日に宣言したと思われます
更に、もう一つ見逃してはならないことは、道長の別妻で、巌の生母である源明子(みなもとのめいし)は、他ならぬ国母詮子の
養女格であり、道長との婚姻は詮子の仲立ちによって成立した経緯がありました
兄道隆(みちたか)達、中関白家(なかのかんぱくけ)との確執を深めていた詮子は、道長と正妻である源倫子(みなもとのりんし)が同居する土御門殿(つちみかどどの)を常の女院御所として使用しており、詮子は道長夫妻
取り分け、土御門殿のオーナーでもある倫子には頭が上がりませんでした
そういう事情もあり、詮子は倫子出生である道長長女の彰子(しょうし)の入内を強力に支援していたのですが、その最たる配慮の一つこそが…
中宮生母となった倫子への従二位(じゅにい)昇叙でした
これに対して、漸く自身出生の娘(道長三女)である寛子(かんし)が生まれたばかりの明子は、依然として無位に過ぎず…
既に倫子との格差は明確であったのですが
明子が国母養女格であるという事実に変わりはなく、彼女の後見人的な詮子の意思を忖度する必要があったのでしょう
詮子にしてみれば、明子腹の第一子巌や弟の苔(こけ)は孫に等しい存在であり、特に巌に対しては誕生以来、筋目々々での通過
儀礼等で格別な配慮を見せており、ここにも詮子と明子母子との強固な絆が垣間見れます
そういう事情を考慮すれば、詮子が『極めて優妙(ゆうみょう)』と人々が評する程の舞を演じた巌への恩賞を望むことは
必至な訳で
既にそれは、試楽の段階で明らかであったこともあり、一条は詮子とも相談のうえで、四十算賀本番時における巌への恩賜を決定
当然ながら詮子もこれを了承したと思われます
因みに、歴史学者の服藤早苗(ふくとうさなえ)氏は…
➀一条は、嫡男である田鶴には、試楽の際に『王権との人格的主従関係を可視的に表彰する』という『御衣の下賜』によって
その意を充分に尽くしていると判断
②それ故、土御門殿(つちみかどどの)で行われた四十算賀当日には、詮子の養子格である明子腹の頼宗への賞賛を表した
③しかも道長に配慮して間接的にその舞師への栄爵という形で、その祝賀の意を示した
④倫子出生の嫡男である田鶴の様な『御衣の下賜』に及んだのではなかった
(一条にしてみれば、道長の息子達の嫡庶の区別は付けたつもりである)
上記の様に指摘しており、道長の『忿怒』(ふんど)を一条は理解し難かったと思われます
では、何故道長は怒りを隠そうとはしなかったのでしょうか
続きは次回と致します