さてさて…
本日は
『光る君へ』では、完全なヒール役な立ち位置となってしまっている、伊周(これちか)について、お話します
長徳の変(ちょうとくのへん)で、失脚した伊周は
遠く九州の太宰府(だざいふ)へと左遷されました
この頃の大宰府は、政争に敗れた人物の左遷先として、定着した感があったのですが…
九州の特別管区としての重要性から、そこの責任者には、公卿クラスを配することが先例となっていました
太宰府のトップである帥(そち)は、皇族である親王が任じられることになっていたのですが、親王が直接現地に赴くことはなく
その場合は、次官である権帥(ごんのそち)若しくは、三等官である大弐(だいに)が最高責任者として同地を統括していました
因みに、権帥が任命されている場合は、大弐は空席となり、反対に、大弐が任命されている場合は、権帥は空席とすることが
暗黙裡の合意となっていて、両職は同時に並立することはありませんでした
尚、先程もお話しましたが、大宰府権帥は、参議(さんぎ)若しくは中納言(ちゅうなごん)を本官とする議政官(ぎせいかん)が
兼務することになっており、その場合は現地赴任が原則となっており
如何に大宰府が重要地であったことが窺われますね
ところで、伊周が内大臣(ないだいじん)を罷免されて、太宰権帥に左遷された時
同地には既に任命されていた現職の太宰大弐が在任していました
そこへ、権帥の官職を帯びた伊周が赴任した訳で、この時点で、太宰府には権帥と大弐が併存していたことになります
極めて変則的な事態であるのですが、この二人の権帥の立場が、天と地ほどの差があったのです
伊周が任じられた(降格人事ですが)権帥は、別名で員外の帥(いんがいのそち)と呼ばれており…
実際には何の権限も仕事もなく、ただその官職にあるだけという、世捨て人的な存在だったのです
ご存知の通り、伊周は
➀国母詮子(こくもせんし)への呪詛
②花山院(かざんいん)の輿に向かって矢を射た
等と、何れも死刑相当の罪を犯しながらも、死一等を減じられて太宰府への流罪という沙汰を受けていました
但し、いくら罪人とはいえ、正三位内大臣(しょうさんみないだいじん)という顕職に在った人物であり、それを無位無官のまま
太宰府に追却するのは、あまり無慈悲であるということで…
何の実権もない名目的な官職であっても、元内大臣の面子を守るという目的上、員外の帥という閑職が用意されたのです
因みに、伊周以前、員外の帥となったの公卿が…
➀昌泰の変(しょうたいのへん)で失脚した右大臣菅原道真(うだいじんすがわらのみちざね)
②安和の変(あんなのへん)で失脚しただ左大臣源高明(さだいじんみなもとのたかあきら)
上記二人の大臣クラスの公卿であり、何れも現職大臣でありながら、謀叛罪により、太宰府員外の帥として左遷されたことは
伊周と共通していました
なお、九州特別特区である太宰府の近くには、我が国最大の交易港である博多津(はかたのつ)があり、したがって、現地トップである権帥や大弐は、同港の交易を統括・監督する職務をも担っていたのですが…
貿易に関与することは、則ち、やり方によっては、私腹を肥やすことも可能であり
公卿や貴族達は、旨味のある太宰権帥や太宰大弐になることを望んでいたのです
但し、事実上の罪人である員外帥には、その様な甘い汁を吸うこと等、認められておらず、文字通り世捨て人としての生活を
余儀なくされていたのです
因みに、長徳二年(996)、伊周が員外帥として太宰府に赴いた時の太宰大弐は
前年に赴任してた、藤原有国(ふじわらのありくに)という人物でした
件の有国は、道長(みちなが)の父兼家(かねいえ)の家司(けいし)として活躍
同じく兼家の家司であった平惟仲(たいらのこれなか)と共々、『兼家の両眼』(かねいえのりょうまなこ)と称される程の腹心
でした
兼家の引き立てを受けた有国は、太政官事務方である弁官(べんかん)トップの大弁(だいべん)等を歴任
この時期には、大宰府大弐として、重要地を与っていました
かって、兼家から受けた恩義を忘れていなかった有国は、左遷されて来た伊周を丁重に扱った様で…
流謫の悲哀は避けられなかったとはいえ、有国の好意により、伊周の現地での生活はそれ程不自由を感じることはなかったと
思われます
(父の元腹心が太宰府のトップであったことは、伊周には幸いでしたね)
そして、配流から僅か一年後…
東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)の病平癒の恩赦を受けることになった伊周は…
帰京を許されることになったのです
続きは次回に致します