伊周帰洛を控えた道長の対応(公季の内大臣就任) | タケ海舟の歴史事件帳

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さてさて…

 

長徳の変(ちょうとくのへん)による罪状で、左遷されていた伊周(これちか)の帰洛が迫る中…

 

左大臣道長(さだいじんみちなが)は、伊周が将来政界に復帰することを想定した対策を講じる必要に迫られていましたOK

 

これより以前、同じく先の政変で、出雲に左遷(正しくは病気療養を理由に但馬在国)されていた隆家(たかいえ)が帰京していた

のですが…時計

 

直ちに政界復帰とはならず、帰京からひと月余り後に、閑職ながら兵部卿(ひょうぶきょう)に任じられ、復帰への足掛かりを掴んでいました流れ星

 

伊周の配所は、遠く離れた筑紫(つくし)の太宰府(だざいふ)であったので、(隆家と異なり)帰洛には、なお時間を要することが

見込まれており、それまでに道長も対策を考える時間があったと思われます。

 

その様な状況下の、長徳三年(997)六月二十三日丸ブルー

 

当時の太政官の序列三位であった、大納言公季(だいなごんきんすえ)指輪

 

『内大臣(ないだいじん)に任じる!』という宣旨(せんじ)が下ったのです宝石白

 

公式な発令は、この約一か月先の七月五日だったのですが、この人事については、公卿社会に少なからず波紋を呼んだ様ですもやもや

 

『黒光る君』こと小野宮実資(おののみやさねすけ)は、公季に任内大臣宣旨が下ったことについて左差し

 

『はなはだ理由がないことである!として、この昇進について疑問を呈しています耳

 

実資は、朝廷の政務や儀式にストイックな姿勢で臨むことで知られていたのですが、それだけにその様式や作法には精通して

おり…

 

儀式等で他の公卿達がルールに反した進行や行動を取った場合バツブルー

 

『甚だ便宜がない!』、『先例を知らないのか!』、『呆れて顎が外れる!等と笑い泣き

 

辛辣な言葉を日記『小右記』(しょうゆうき)に書き残しています昇天NG

 

六十年以上に及ぶ、『小右記』の記述は、実資がライフワークとしていた朝廷の公事・儀式等の先例の蓄積であったのと同時に…

 

官界の公務員であった公卿貴族達に実資が下した、勤務評定的な性質も多分に含まれており、実資の仕事に対する謹厳な姿勢

窺われますが、一方でピリピリ

 

仕事が出来ないという烙印を押した公卿達に対しては、相当シビアな言葉を投げつけていますドクロ

 

勿論、それはあくまでも、日記の世界に限られたことで、本人を前に罵倒に等しい言葉を発することはなかったのですがもやもや

 

小右記』の世界で、実資から厳しい言葉を浴びせられてない人物はまず存在しなかったと言えますね注意叫び

 

内大臣宣下を受けた公季に対しても、実資は『小右記』の中で…

 

『ろくに自分で先例を調べもせずに、自分の根拠のない考えを述べる等して、全く勉強不足である!

 

とかなり辛辣なコメントを残しており、上席公卿でありながらも、実資は公季のことを殆ど評価していなかったと思われますNG

 

最も、公季の上席であった、左大臣顕光(さだいじんあきみつ)に至っては、実資は公季以上の手厳しい言葉で、その無能ぶりを

嘲弄していますが笑い泣き

 

さて上三角

 

実資の非難轟々ぶりは、一先ず置いておいてぐぅぐぅ

 

公季が内大臣に任命された背景についてポスト

 

当時の太政官首脳構成を見てみますと丸レッド

 

➀関白:空席

 

②太政大臣:空席

 

③左大臣:道長⇒内覧(ないらん)で一上(いちのかみ)を兼ねる

 

④右大臣:顕光

 

⑤内大臣:空席

 

⑥大納言:公季・源時中(みなもとのときなか)

 

上記の如きでしたキューン

 

七日関白道兼(なのかかんぱくみちかね)薨去後の後任執政を巡っての政争は、甥伊周を押さえた叔父道長に軍配が上がり本

 

当時、権大納言(ごんだいなごん)現職大臣でなかった道長は、右大臣と准関白(じゅんかんぱく)たる内覧を兼ね、内大臣伊周の上席となりました音譜

 

周知の通り、翌年の長徳の変で、伊周は内大臣を解かれて大宰府に左遷された結果耳

 

道長は左大臣に昇進(内覧はそのまま)右大臣の後任として、(権)大納言の顕光が昇格しました花

 

顕光と時期を同じくして、前年に大納言に就任していた公季ですが、伊周の左遷により空席となった内大臣に昇格することはなく

 

政変から暫く経過した、長徳二年六月、道長の譲りを受けた形での、左近衛大将(さこんえたいしょう)への就任に留まったのです音譜

 

太政官首席である太政大臣は、適任者がいなければ任命しないとする、則闕の官(そっけつのかん)であったので、空席は当然の

措置であったのですが…

 

太政大臣を除いた、三大臣のうち左大臣(道長)と右大臣(顕光)が埋まっている中上差し

 

長徳の変後に、道長と顕光が昇進したのと同時に公季の内大臣昇格が実現せず

 

翌年に至って、それが実現の運びとなったのは、何故だったのでしょうか?

 

このお話は次回とさせて頂きますサンダル